いつか聞こえなくなるまで
「心の痛みから逃れるために体の痛みが欲しいんだろう? 俺が今すぐ楽にさせてやるよ。その腐った心をぶっ潰してやるよ」
カミソリを手首に当てる僕の頭の中で何度も何度も繰り返される、毎度お馴染みの言葉。
手首を切る事を覚えたのはもうずっと昔の事だ。24歳、社会人2年生の頃、失恋した時に「そうだ、手首を切ろう」そう思って、切った。
切る。
少し遅れてやってくる鈍い痛み。
ツゥーっと流れてしたたる血。
痛みは僕を心地よくさせた。安らぎを感じた。
それから、何かあるごとに手首を切るようになった。仕事のストレス、もてない事、
将来への不安、不満、些細な事でも大きな事でも。
手首を切る、その儀式を行えば、なんとかやり過ごして翌日を迎えられた。
インターネットで知り合った同じような連中と、リストカット大会をやったりもした。カラオケボックスで、覚せい剤並みの効果のある精神病の薬を飲みグルングルン回る頭で手首を切る。それぞれが勝手に喚き、泣き、叫ぶ。のん気に歌ってるやつもいる。そんな馬鹿げたパーティ。
「心の痛みから逃れるために体の痛みが欲しいんだろう? 俺が今すぐ楽にさせてやるよ。その腐った心をぶっ潰してやるよ」
今日も俺は頭の中で響き続けるそのフレーズを聞きながら、カミソリを手首に当てていた。何故かって? 高校で同じクラスだったやつが結婚したから。俺は独身なのに、結婚なんかしやがって。
いつも通りの痛み。いつも通りの血のしたたり。だけど、今日は少しだけ違う事があった。心地よく、なかった。「俺、こんな事してていいのか?」そう思った。
本当をいうと、ずっと前からこんな自分が嫌だった。何もせず、妬むだけで、被害者気取って、自傷して悲劇の人を気取る。こんなんじゃ、駄目だって。わかってた。
それでも繰り返される言葉。
「心の痛みから逃れるために体の痛みが欲しいんだろう? 俺が今すぐ楽にさせてやるよ。その腐った心をぶっ潰してやるよ」
僕は両手で耳を塞いだ。
両手で耳を塞いだまま走った。
追いかけてくる声。
「心の痛みから逃れるために体の痛みが欲しいんだろう? 俺が今すぐ楽にさせてやるよ。その腐った心をぶっ潰してやるよ」
もっと強く耳を塞ぐ。
声を出す。言葉をかき消すために。大声を。喉が裂けるまで。大声を。
どこまでも走って逃げて言葉がもう聞き取れなくなるまで、僕は走って逃げてみせる。