バッグ

 父方の祖母が入院して半年以上経った頃です。両親は何度もお見舞いに行っていましたが、私は一度も顔を見せていませんでした。しかし、もう残り少ないというので、父が正月休暇に入るのと同時に、家族で帰省しました。
 
 祖母の家は遠く、大学受験を控えていた私は、祖母なんかよりも受験勉強を、という気持ちが強かったです。しかし、帰省を嫌がる私も両親のしつこさに根負けして、同行する事にしました。とは言え、祖母の心配などするでもなく、飛行機の中でも受験勉強をしていましたが。
 
 飛行機を降りて、バスと電車を何度も乗り継ぎ、最後はタクシーで直接、病院へ向かいました。
 
 一番奥の個室の中で沢山の管に繋がれた祖母は、父が呼びかけると薄く目を開けてこちらを見ました。声は出せないようでした。
 「カーチャン、今日は、清美も来たよ。ほら、清美。大きくなったろ」
 祖母の目がゆっくりとさ迷って、ようやく私を見つけると、微かに手を動かしました。
 私はどうしていいかわからず、その手を握り返し、お婆ちゃん久しぶり、と言いました。
 祖母の骨だけでカサカサになった手に、少しだけ力が入った様な気がしましたが、それ以上の反応はありませんでした。
 30分程、そこに居たでしょうか。私達より後にやって来た、今も祖母の家で暮らしている父の妹と共に、祖母の家に移動しました。
 
 玄関を開けた途端、懐かしい、祖母の家の匂いがしました。ここへ最後に来たのはいつだったでしょう。小学4年生の夏休みが最後だったかもしれません。
 
 家中のあちこちに、私の生まれたばかりの頃から今までの写真が飾ってありました。ずっと昔に私がプレゼントした、祖母と私を描いたヘタクソなクレヨンの落書きもありました。
 それらを見ている内に、私は段々と後悔の念に包まれていきました。
 祖母は戦争で夫を亡くしました。孫は、私だけです。私が来ることを何よりも楽しみにしていたのも、知っていました。しかし私は、部活や勉強を言い訳にして、段々と祖母の家へ行くのを拒否する様になって行きました。
 
 こんなにも想ってくれる人の事をなんでもっと大切にしなかったんだろう。
 ある、夏休みの事です。祖母は私を川へ水遊びに連れて行ってくれました。もう帰ろうと何度も言う祖母を無視して、私は水遊びに夢中でした。そうして何時間も遊んだ後、祖母は帰宅すると高熱を出して寝込みました。熱中症でした。それでも祖母は、「また、川、行こうね」と言ってくれました。
 
 田舎臭い料理が気に入らず、ふて腐れた私にオロオロして、慌てて出前を取ってくれた事もありました。
 
 次々と思い出が蘇り、その分だけ、後悔は深まります。
 
 祖母の死を知らせる電話があったのは、翌朝の4時でした。
 駆けつけた時には既に、顔に白い布がかけられていました。握った手は硬直していて、もう、温かくはありませんでした。
 
 それから一通りの儀が終わるまではあっと言う間でした。
 初七日が済むまで残る事にした父を残し、母と私は一足先に、自宅へ帰る事になりました。
 祖母宅を出る際、父の妹から紙袋を渡されました。高級ブランドのロゴが入った袋です。
 中には、その高級ブランドのバッグが入っていました。そしてそのバッグには、お守りが結び付けてありました。
 父の妹が言うには、祖母は私がきっと、受験が終わるとまた遊びに来てくれるだろうから、その時にはもう一人の大人なのだから、立派なものを、と言って、父の妹と一緒に買いに行ったのだそうです。
 
 年金さえもらえてない、父の妹の稼ぎだけで生活している祖母達にとって、どれだけ大きな出費だったでしょう。私はまた、祖母から距離を置いていた事を後悔しました。
 
 飛行機の中で、持って来ていたバッグの中身を、新しいバッグに入れ替えました。
 初めて持つ、ブランドバッグです。私は少し、得意げに、見せびらかすようにして歩きました。結び付けられたお守りが少々、気にはなりましたが、外す気にはなれませんでした。
 
 空港を出てモノレールに乗っていると、雨が降り出しました。
 最寄駅に着いた頃には、雨は更に激しさをまし、10メートル前も見えない程でした。
 駅から自宅までは、走れば3分程です。コンビニで傘を買い、母と二人で小走りで自宅を目指しました。
 
 自宅の目の前の交差点に差し掛かりました。
 ちょうど信号が点滅を始め、諦めた母は立ち止まりましたが、バッグが濡れるのが嫌だった私は、急いで走って渡ろうとしました。
 
 その時です。
 右折して来た車が、私めがけて突っ込んで来ました。大雨のせいで、私が見えていなかったのでしょう。
 轢かれる! そう思い、体が固まり、立ちすくみました。その瞬間、何かにすごい力で引っ張られ、私は尻餅をついて転び、目の前すぐを、車が通り過ぎました。
 後を見ましたが、誰もいません。
 
 慌てて駆け寄って来た母も、何も見なかった、あなたが勝手に転んだ、と言いました。
 
 あれは、何だったんだろう? 自宅に着いた私は、不思議に思いながら、濡れたバッグをタオルで拭こうとしました。
 その時、気付きました。結びつけてあったお守りが、引き千切られたようにして、なくなっているのです。結び目の紐だけが残っていました。
 
 あれは、祖母が引っ張って助けてくれたんだろうか? こんなに、薄情な孫だったのに?
 私はこの時初めて、祖母の死に涙を流しました。