あわてん坊のサンタクロース
あわてんぼうの サンタクロース
クリスマス前に やってきた
いそいで リンリンリン
いそいで リンリンリン
ならしておくれよ かねを……。
クリスマスが近づくと街のあちこちから、この滑稽なサンタにぴったりのメロディーが聞こえてくる。
だけどいつも、その楽しげなメロディーが私の耳に入るのは、自転車で夜の仕事へ向かう途中だけだった。
昼間の仕事が終わると一度帰宅し、ご飯を食べる暇も無く、シャワーと化粧だけを済ませ、夜の仕事へ向かう。帰る頃には、あんなに賑やかだった街はどこかへ消えてしまい、もうどこからも、あの楽しげなメロディーは聞こえて来ない。だけど、街の灯りがすっかり消えてしまうわけじゃない。普段は頼りない、途切れ途切れの街灯だけの帰り道。その道もクリスマス前だけは、家々の壁や樹木に飾られた虹色のイルミネーションが加わり、賑やかだ。
寒風が、自転車で家路を急ぐ私の頬を、音を立てて切り去っていく。その視界の隅で、尾を引きながら流れていく、点滅するイルミネーション達。誰に見られるわけでもないのに、輝き続けてる。その光たちにメロディーを添えてあげる心の余裕は、私には無かった。
私はそうやって、17歳の時から去年までのクリスマスを過ごしてきた。25年もの間、だ。
子供の頃、私の家には、クリスマスというものは無かった。サンタクロースの存在を知ってはいたけれど、私の家に来てくれた事は、一度も無かった。ケーキやフライドチキンが、食卓に上がった事も。
15歳の時。初めて、クリスマスイブという特別な日を過ごした。初めての彼氏と、初めて結ばれた夜。あの頃はまだ、イルミネーションというものが珍しかった。私と彼は、テレビで話題になっていた遠い駅の街まで、それを観に行った。駅前通りを貫く、光の束。テレビで言っていた通りの、眩い光のシャワー。光と、メロディーと、見上げるカップル達の口から漏れる、白い息と。彼は上を見たまま私の手を握り、私は彼の腕に頬を寄せた。こんな事、今までは照れ臭くて、一度もした事なんか無かったのに。一度も手なんか握ってくれた事、無かったのに。二人がこんなに大胆になれたのは、周囲のカップルに当てられたからか。それとも、サンタクロースがくれたプレゼントだったのか。彼の手の温もりと、コート越しでもわかる程の、逞しい腕。二人は今、確かにこうしてここに居る。それだけでよかった。理由なんか、いらなかった。
私の妊娠が発覚したのは、それから半年後。本格的に梅雨に入った頃だった。お互い、まだ高校生の身。両家の親同士で大喧嘩になった。連日、両家と学校の先生を交えての話合い。そしてとうとう、私の父が彼の父に殴りかかった日、彼が盗んできた母親の財布だけを持って、二人で駆け落ちした。
今でも、フスマのシミや鉄柵の錆び具合、ドアの軋む音まで、はっきりと覚えてる。寮とは名ばかりの、たた3畳の長屋。隣には、この辺の建物の持ち主である暴力団のビルがあって、それを取り囲むように、長屋が密集していた。住居人は皆、暴力団絡みの仕事をする者ばかり。彼が風俗店のボーイとして働く約束をして、入れてもらったのだ。
彼はタダ働き同然で、早朝から翌朝まで働き続けた。寮には、沢山の風俗嬢が居た。「お金が溜まったらこれを消すの」そう言って見せた背中には、大きな龍と男の名前が彫られていたお姉さん。東北訛りがきつくて、ほとんど会話が通じないお姉さん。毎日のように、料理をお裾分けしてくれたお姉さん。酔っ払っては暴れ散らすお姉さん。首を吊って死んだお姉さん。自分の部屋で出産したお姉さん。
皆、仲良しだった。ワケアリ者同士、だったからなんだろう。風俗嬢や肉体労働者の脱走を監視するためのオバさんも居た。彼女は口が悪く、皆に嫌われていた。元々は有力者の愛人として好き勝手やっていたけれど、男が失墜したせいで立場がなくなり、ああやって細々と暮らしているらしい。
世間から見れば、哀れな者達の集まりだったのかもしれない。だけど、そこに居る皆の誰にも、悲愴さなんて無かった。3畳の部屋と、周囲数十メートルだけの世界。お姉さん達が仕事から上がって来て、彼が帰宅するまでの、数時間の井戸端会議。彼が眠りにつくまでの、数十分だけの二人の時間。お金なんか無くても。テレビなんか無くても。辛いとか悲しいとか苦しいとか、そんな事、一つも無かった。お腹の子も、順調だった。
生活面だけでなく、病院代なんかの金銭面でもお姉さん達に助けられながら、私は無事、出産を終えた。
集まってくれたお姉さん達。お祝いだと言って、病室でビールを飲みだした人も居た。名前はあれがいい、これがいい、と皆で相談が始まった。皆、自分の事みたいに真剣だ。この人達のお陰で、私は母親になれたんだ。そう思った途端、しゃくり上げる様に泣き出してしまった。「うんうん、がんばったね、がんばったね」そう言いながら、頭を撫でてくれた。子供の頃から、涙は流しちゃいけないんだと思ってた。どんなに辛くても、涙を見せたら負けなんだって思ってた。だからいつも、我慢してた。一度だって、泣いた事は無かった。だけどこの時初めて、涙は流してもいいんだって知った。そして、涙は悲しい時や辛い時だけじゃなくて、嬉しい時にも流れるんだって知った。
しかし、そんな幸せの場に、彼の姿は無かった。店にも来ていないと言う。
「何か理由があるのよ」
「すぐに戻って来るって」
そんなお姉さん達の言葉をよそに、退院の日を迎えても、彼は戻って来なかった。
寮に戻るのなら、私が働け、そうでなければ、もう寮には戻れないと言われた。
実家へ帰ろうかという考えも頭を過ぎった。だけどまだ、彼への未練があった。ここで待っていれば、いつか戻って来てくれるんじゃないか、と。
新米ママと新人風俗嬢という、二つの新たな生活が始まった。相変わらずお姉さん達は優しく、お世話になりっぱなしで、感謝の気持ちばかりが募っていった。同時に仕事の中では、世の男達がどれだけ汚いものかを、思い知らされた。
新生活が始まって数ヵ月後、管理していた暴力団のいざこざで、私達は宙に浮いた状態になった。急に、店に出る必要もなくなり、拘束する人物も居なくなってしまったのだ。
皆、散り散りに逃げ出した。タコ部屋同然のこの生活から逃れられるのだから、当然だ。
私も、お姉さん達に何一つお返しが出来なかった事を心残りに思いつつ、寮を後にした。
次の店と住処はすぐに見つかった。ここでもまだ、彼への未練があったのかもしれない。いつまた、暴力団の目に入るとも限らないのに、寮からそう遠くない場所に決めたのだから。彼が何処にいるかなんて、わからないのに。それどころか、まだこの街に居るかさえ、わからないのに。
新しい店では、普通に給料が貰えた。若い私はよく売れた。店も売れっ子という事で、子供優先の私の我侭をよく聞いてくれた。
これなら親子二人、安心して暮らしていける、そんな安堵も束の間。不幸はすぐにやって来た。元々の体質に加え、出産後すぐに仕事を始めたため、仕事の出来ない体になってしまったのだ。一本目の客だけでも辛く、二本目ともなると、客が動くたびに胸まで裂けるかの様な痛みが走った。
店は私の希望通り、客は一日2人までと約束してくれた。しかし、それでは生活がやっていけない。
昼の仕事も始めるしかなかった。
娘と過ごす時間だけが生き甲斐だった。他に誰も、頼る人も、知った人もいない。私と、娘だけの生活。それは娘にとっても同じ事。私だけが、娘の全て。なのに、2つの仕事を掛け持ちしているせいで、娘との時間は減って行った。
大きくなるにつれ、楽になる所か、余計に手間がかかるよになって行く娘。
いつしか私は、娘を邪険に扱うようになっていた。娘は可愛げもなく、私の顔色を伺うようになった。それが尚更、憎たらしく思えた。こんな事じゃいけない。それはわかっていた。それでもどうしても、ストレス発散の矛先は娘に向かった。些細な事で大声を上げては、娘を怒鳴り散らした。
年も押し迫ったある日。いつものように昼の仕事から一旦帰宅し、娘の晩御飯を作っていた。晩御飯という程でもない。目玉焼きと、ウインナーだけ。
いつもは黙って本を読んでいる娘が、仕切りに話かけて来た。
「クリスマスって知ってる? 」
「じゃあ、サンタクロースって知ってる? 」
「じゃあ、あわてん坊のサンタクロースって歌、知ってる? 」
振り向きもせずに適当に返事をする私を、娘は質問攻めにした。
「あわてん坊のサンタクロースね、今度幼稚園で歌うの。だからお母さん、一緒に歌おう」
そう言ってサンタクロースの絵が描かれた本を差し出した娘の手を、私は払いのけ、言ってしまった。
「さっきからウルサイわね、あんたのためにご飯作ってるの! あんたのために、仕事に行かなくちゃいけないの! 歌う暇なんかないのぐらいわかるしょ! 」
娘は床に落ちた本を拾い上げると、それを胸に抱いたまま、私を見つめて立ち尽くしていた。
私が家を出るまで、ずっと。
帰宅すると、娘はさっきの本を枕元に置いたまま眠っていた。食卓の上には、クレヨンで描いた、サンタクロースと娘と私の、3人の絵が置かれていた。何の飾りもない、質素な絵だった。
他の家庭では、クリスマスを祝ったりするんだろうか。しかしその時の私には、手のかかる娘の煩わしさに腹立たしさばかりを感じ、特に何をしてあげようとも思わなかった。
翌朝、娘は目を覚まさなかった。
娘は検査を受け、私は事情聴取を受けた。結果、事件性はなく、幼児性突発死として処理された。
役所による、形ばかりの質素な葬儀。訪れてくれた人は、一人もいなかった。
遺骨が入った箱を持って、電車とバスに揺られた。元気に走り回る子供達や。子供を肩車して歩く父親や。田舎から子供の所に遊びに来たと言った風な、老夫婦や。
誰もが皆、幸せそうな顔をしていた。この中の誰一人とて、私が持つこの箱の中身が遺骨だなんて、思いはしなかっただろう。
歳を取る度に、風俗嬢としての価値は下がっていく。次々に店を変えながら、その度に条件は悪くなっていった。以前のような我侭も簡単には認めて貰えない。客に口説かれる事は多かったけれど、どうしても、もう一度家庭を築きたいという気にはなれなかった。
後はもう、落ちていくばかりだった。払うものも払えず、飲んだくれては男のオモチャにされたり、傷だらけで帰宅したり。翌朝には痛みがあるばかりで、記憶はない。そんな繰り返しだけの生活が続いた。
そうやって25年が経った頃。
いつもの様に酔っ払って正気を無くした私は、包丁を首に突き刺し、そのままベランダから飛び降りた。
この時、死ねていればよかったのに。結果、顔半分と右腕だけしか動かない、車椅子生活の体といった。
いつ退院出来るかわからない。退院後も、どこかの施設に入るしかないだろう。もう、働けない体なのだから。
私が居る階は、死を待つだけの老人ばかりだった。彼ら彼女らもまた、私と同じく、ここを出ても、同じ様な施設に入るしかない。死を待つだけの身だ。
そんな陰気な病院にも、クリスマスはやって来る。
今日は、近所の子供合唱団が歌を聞かせてくれると言う。
イベントホールに集められた、老人達と私や他の入院患者達。
子供達は何やら喧嘩したり泣いたりしながら登場した。しばらくして、引率者の短い挨拶があり、子供達は元気一杯に歌い始めた。
あわてんぼうの サンタクロース
クリスマス前に やってきた
いそいで リンリンリン
いそいで リンリンリン
ならしておくれよ かねを……。
笑顔でいっぱいの子供達が。
私の娘の分まで。
あの時、一緒に歌って上げられなかったこの曲を、娘の分まで、歌ってくれている。
子供達よ。
どうか、私の娘の分まで。
その笑顔を、絶やさないで。
胸の中でそっと、そう願いながら、まともに動かない唇で、一緒に歌った。
本当に偉いのは
子供の頃は知りもしなかった、思いもしなかった事って、多いよね。それに、大人になってから、大人に騙されてた! って気付く事も。
大事な事は、それが良い事でも悪い事でも、正直に、子供の頃からしっかり教えておくべきだよね。なのに今は、本当の事を隠して、子供を騙して誤魔化しちゃう。そういう親が多い。だから子供は、変な偏見持っちゃって、物事を正しく見れなくなっちゃう。
こんなんじゃ、日本の将来は暗いよ……。
日本の将来って言えば、あの話。あれ、大人でも知らない人が多いみたいだけど。
内閣総理大臣っているでしょ。子供がなりたい職業NO.1の。え? 今は違うの?
まあ、うちは子供が居ないから、そんな事はどうでもいいけど。で、その総理大臣。
敗戦以降の歴代総理大臣って、アメリカ製の機械だって知ってた? 電池で動いてるんだよ。
今ってほら、エコの時代なんだから、太陽光発電にしなよ! せめて、充電して何度も使える電池にするとか、って思うけど。
今でもずっと、一番最初と同じ、古いタイプの機械みたいだよ。そのせいで電池の交換も出来なくて、切れたらそれで終わりなんだって。電池が切れた時が、次の人に交代する時なわけ。
だから、日本の総理大臣て、あんまり行動的じゃないの。そりゃ、せっかく総理大臣になれたんだから、少しでも長くやってたいもんね。それに、長くやってればやってる程、国民に認められてる優秀な政治家だ、みたいな空気があるし。
馬鹿な話だよね。電池の残り量を気にして何もしない大臣ほど長くやれて、国民のためにせっせと働く大臣は短命に終わるなんて。
でさ、ここまでは、まあ、大人なら知ってる人もいる話じゃない? でもね、続き、聞いちゃったんだ。
なんでアメリカは、日本の総理大臣を機械にしちゃったかって話。
実はね、機械なのは、日本の総理大臣だけじゃないの。アメリカの州知事も皆、同じなんだって。
理由?
これがまた、嘘みたいな話なんだけど。宇宙人って信じる? 私は、居てもいいかな、ぐらいにしか思ってないけど。でさ、その宇宙人から見たら、地球の主はアメリカなわけじゃない? だから当然、地球を乗っ取る為に、アメリカを攻撃して来てるんだって。日本も、アメリカの一部みたいなもんだから、当然、日本も狙われてるわけ。
でも、おかしいって思うでしょ? 宇宙人が来たなんて話、テレビでは時々やってるけど、実際に攻撃された話なんて聞かないもんね。
ところが、よ。私達が知らないだけで、結構ハードに攻められてるらしいの。だからアメリカは地球を守るために戦って、攻めて来た宇宙人を次々に返り討ちにしてるのよ。
誰がやってるのかって? NASA?
そうそう、NASA。NASAの連中が管理してるらしいんだけど、実際に戦ってるのは、違うの。
もうわかったでしょ? そうよ。州知事と、日本の総理大臣よ。宇宙人が来ると、彼らは叫び声をキッカケにして、戦闘モードのロボットに変身するの。
変身した彼らはすごいらしいよ。だって、州知事と日本の総理大臣、全部合わせても数十人じゃない? それに、皆が皆、その時に都合良く出撃出来るってわけじゃないだろうし。
少人数で、宇宙人大軍団をやっつけちゃうんだよ。
きっと、激しい戦いなんだろうね。だって、一回戦闘に出ると、電池が一気に5%ぐらい減るらしいよ。だから、色々言い訳して、なかなか出撃しない奴も多いみたい。
ね、こんな裏話聞くと、ちょっと総理大臣を見る目、変わっちゃうよね。
長い事総理大臣やってる人が実は楽してるだけで、誰にも知られずに宇宙人と戦ってる人が、短命に終わって無能呼ばわりされるなんて。
今の世の中、おかしいよ。日本の教育はどうなってんのって言いたいわ。
あ、そうそう。さっき言った、変身するキッカケの叫び声だけど。あれって、自分で好きな言葉を選べるらしいの。
昔、麻生って人が居て、自分の名前を叫ぶ事にしたらしいんだけど。それがアメリカ人にはasshole、つまり、お尻の穴って聞こえるらしくて。本人は格好良く決めたつもりなのに周りの皆が毎回爆笑するから、すごく不思議そうにしてたらしいわ。誰か教えてあげればよかったのにね。大事な事は、それが良い事でも悪い事でも、正直に教えてあげないと。ね。
祐介
突然、助手席のドアが開いた。
中から、誰かが降りてくる様子はない。止まったままの車。
通行人達は皆、見ないふりをして通り過ぎて行く。誰が見ても、普通の人間が乗る車じゃないからだ。乗っているのは、ヤクザか。そうでなければ、どこかのボンボンか。どちらにしろ、街中のこんな所に堂々と車を横付けする様な人に関わって、良い事なんかない。
たまたまそこに立っていた梓は、シルバーの車体が反射している眩しい太陽の光に目を細めながら、ぼんやり眺めていた。もっとも、梓がぼんやりしているのは、いつもの事だけれど。
何? この車。なんでこんな所でドアを開けたまま、止まってるの? 車はサッパリの私でも知ってる。この車、外車の中でも、特別高いやつだ。
どんな人が乗ってるんだろう?
中をこっそり、覗き見してみようかと思ったその時。運転席側の窓から上半身を乗り出した男が、梓に手を振りながら言った。
「お待たせ! ごめんね、待たせて。さ、乗って乗って。早く、行こ」
誰? この人。こんな人、知らない。こんなにカッコいい男なんて、私の知り合いにはいない。お待たせって何? 私、待ち合わせなんかしてない。
ナンパ? まさか。私がナンパされるなんて。絶対、ない。無い無い。35年間、一度も彼氏なんか居た事ないのよ。それどころか、合コンに行ったって、いつもジョーカー扱いの私よ。何なの、この人……。
混乱して立ち尽くす梓に痺れを切らしたのか、男は車から降りてきて、助手席へと促した。
少し細めのダークスーツ。少し長めの真っ黒でサラサラの髪。少しだけ日焼けした肌。綺麗に手入れされた爪。肩に手を置かれた時、甘い香りがした。その香りは、男自身の香りなのか、或いはコロンの香りなのか。男を知らない梓には、わからなかった。
男は助手席のドアをそっと閉めると、自分も運転席に乗り込み、すぐに車を発進させた。
戸惑う梓。
男は一度だけ梓の方を見た後、視線は前方のまま、自己紹介を始めた。
祐介。26歳。肩書き、社長。
「たった30人の、ベンチャーだけどね」そう言って笑った祐介の笑顔は、まるで子供みたいだった。真っ白の歯が、太陽の光を反射した。
子供みたいな笑顔とは正反対の、落ち着いた口調と顔立ち。とても26歳の若造とは思えない、洗練された大人の落ち着き。
それは、梓の知る、今まで見て来たどの男とも、全く違う世界の人だった。
普通に考えれば拉致とも取れるこの状況を、梓は何の抵抗感も無く、受け入れた。祐介のトークが余りにも絶妙だったからだ。
決して、自慢話はしない。むしろ、梓の心が丸見えであるかの様に話題をふり、聞き役に回る。
梓は、夢中で喋った。喋り続けた。今まで、男の人とまともな会話なんか、した事なかったのに。
行き先を聞いていなかった車は、遊園地の駐車場で止まった。二人で何度も、絶叫マシンに乗った。本気で青ざめてる祐介が可愛かった。
「楽しいねー」
「うん。次、どうする? 最後はやっぱり、観覧車でしょ? 」
そうだ。そろそろ閉園の時間だ。もう、あんなに眩しかった太陽が、沈みかけてる。
観覧車が一番上までたどり着いた時。
小高い山の向こうの町並みが、夕陽で真っ赤に染まっているのが見えた。思わず見とれて、会話が止まった。
祐介は、梓の肩に優しく手を回し、キスをした。梓は、もう片方の手で、祐介の胸を掴んだ。
帰り道も、あっという間だった。 昼間の場所まで、もう着いてしまった。
祐介は昼間と同じ場所に同じ様に車を止めると、助手席のドアを開けた。
降りる梓。
「楽しかったよ、今日。ありがとう。それじゃ、気をつけて」
言葉が出ず、手を伸ばしかけて止まったままの梓の返事を待たず、祐介は走り去っていった。
何だったんだろう、今日は。祐介、か。
連絡先、聞いてないよ。また会いたいよ……。
祐介……。
普段は全くならない携帯が鳴った。
未登録者からのメール。
「今日は、本当にありがとう。楽しかったよ。梓も、満足してくれてたら、嬉しいな。また会えるといいね。 祐介」
祐介からだ!
返事だ、返事しなきゃ!
慌てる梓の手の中で、また携帯が鳴った。今度も、未登録者からだ。
「今回は、弊社のサービスをご利用頂き、ありがとうございます。料金10万5千円を下記口座に振り込んで頂きます様、よろしくお願い致します」
そっか。
今日のが、そうだったのか。
やっぱりね。
そうでなきゃ、私みたいなやつが、今日みたいな思い、出来るはずないもんね。
結婚を諦めた梓が、僅かなボーナス10万円をつぎ込む事を決意してサービスの申し込みをしたのが、もう8ヶ月前。
『出会い系デート倶楽部〜奇跡の出会いを、貴女に〜』料金:10万5千円〜
真の支配者
「ひろゆきは乗っ取りの糞虫」
今はもう、2ちゃんねる漬けの日々を送っている自称『上級2ちゃんねらー』の人々でさえ、このフレーズを見た事も無いと言う人の方が多いだろう。或いは、「ひろゆきって誰? 」という人もいるかもしれない。ひろゆきとは、2ちゃんねるの管理人である。
2ちゃんねるは今や日本のインターネット文化を代表する存在となり、住民達は我らこそがインターネットの支配者だ、とでもいいたげな言動を繰り広げている。
しかし。
スレッドフロート式掲示板、所謂2ちゃんねる風掲示板の元祖は、『あめぞう』である。
そして、日本のインターネット黎明期において、面白いネタのはぼ全てが、『あめぞう』周辺の住民発であった。
これは、「魅力的な場所に、新たな魅力的な人が集まって来る」と言う好循環をもたらし、『あめぞう』は加速度的に、その勢力と魅力を増していった。
しかし、盛者必衰の理。
船は、たった一匹の、乗っ取りの糞虫の手によって沈んだ。
『あめぞう』は何者かによって(犯人は判明しているが、ここでは明記しない)、通称『泥舟スレッド/あめぞうウイルス』に犯され、実質的な機能を停止。
そして同時期、自称「海外留学中の普通の大学生」ひろゆきによる、2ちゃんねる立ち上げ。
機能しなくなった掲示板に存在価値はない。
多くの者は、ひろゆきの誘導に従い、2ちゃんねるに移行。その後の2ちゃんねるの発展は、皆さんの知る所である。
意地になって残った『あめぞう』残党は、2ちゃんねる住民を『厨房』、転じて『壺』と蔑称した。
しかし、2ちゃんねるは瞬く間に、『あめぞう』など眼中に無いまでに勢力を増していた。
結果、2ちゃんねるのトップ画像に堂々と壺の画像が置かれるという、余裕のカウンターを食らう事となった。
では、乗っ取りの糞虫を神輿にして立ち上げられた2ちゃんねるの完全勝利であり、インターネット黎明期を支えた『元祖・あめぞう派』は完全に敗れたのか?
答えは、NO、だ。
日本のインターネット世界が今でも、『あめぞう派』の手中にある事に変わりはない。
一例を挙げよう。
自称『上級2ちゃんねらー』の今一番の流行をご存知だろうか。
「エクストリーム犯罪予告」である。
これは、非常に単純で、かつ、スリリングなゲームである。
ルールはたったの3つ。
?2ちゃんねるに犯行予告の書き込みをする
?最も過激な犯行予告を行った者の勝利
?ただし、逮捕されたら負け
これだけである。
チャンレジャーは多く、そして、ゲームに破れ、逮捕されてしまう者が後を絶たない。
このゲームについての説明が、『あめぞう派』の力を示している事を理解してもらうには、もう少し説明が必要だろう。
時は、『あめぞうVS壺』の表立った戦いが、まだ頻発していた頃に遡る。
表立った争いでは圧倒的に数で負ける『あめぞう派』は、本来の姿に立ち返り、実に『あめぞう』らしい行動を開始したのである。ここで言う『あめぞう』本来の姿とは、UG(アンダーグラウンド)、つまり、アウトローな行動である。
『あめぞう派』は2ちゃんねるに潜伏。
様々な活動により、「2ちゃんねるは悪」というイメージをメジャーメディアにまで浸透させる事に成功。
次なるステップとして、実際に2ちゃんねる上で悪行を行う事によって「2ちゃんねるで実際に悪い事やっちゃった奴が出ちゃった」という既成事実を作り上げる事に成功。
言うまでもなく、この犯罪人達の正体は『あめぞう派』である。
私もこの作戦に直接参加し、某新聞の朝刊1面の2分の1を使って、大々的に取り上げられる事に成功した。2ちゃんねる発の犯行関連まとめサイトには、必ず、私の名前も記されている。
これで、お分かりだろうか?
『あめぞう派』により作り出された「2ちゃんねるは悪」というイメージと実例によって、無垢だった新規2ちゃんねるユーザまでもが犯罪を実行。馬鹿が馬鹿を呼ぶと言う、非常に楽しい状態となっている。
壺など、『あめぞう派』の掌の上で踊らされているだけなのである。
『あめぞう派』による工作の成功実例は、箇条書きでも書ききれない程ある。
他にも、例をあげようか?
いや、今日はもう長くなってしまったので、この辺にしておこう。
あなたも、明日からは、気をつけるといい。
あなたが面白がっている2ちゃんねるでの出来事の裏では、『あめぞう派』が隠れて笑っているかも知れない事を。
そして、覚えておくといい。
我々『あめぞう派』の壺への恨みは、未来永劫、晴れる事がない事を。
バッグ
父方の祖母が入院して半年以上経った頃です。両親は何度もお見舞いに行っていましたが、私は一度も顔を見せていませんでした。しかし、もう残り少ないというので、父が正月休暇に入るのと同時に、家族で帰省しました。
祖母の家は遠く、大学受験を控えていた私は、祖母なんかよりも受験勉強を、という気持ちが強かったです。しかし、帰省を嫌がる私も両親のしつこさに根負けして、同行する事にしました。とは言え、祖母の心配などするでもなく、飛行機の中でも受験勉強をしていましたが。
飛行機を降りて、バスと電車を何度も乗り継ぎ、最後はタクシーで直接、病院へ向かいました。
一番奥の個室の中で沢山の管に繋がれた祖母は、父が呼びかけると薄く目を開けてこちらを見ました。声は出せないようでした。
「カーチャン、今日は、清美も来たよ。ほら、清美。大きくなったろ」
祖母の目がゆっくりとさ迷って、ようやく私を見つけると、微かに手を動かしました。
私はどうしていいかわからず、その手を握り返し、お婆ちゃん久しぶり、と言いました。
祖母の骨だけでカサカサになった手に、少しだけ力が入った様な気がしましたが、それ以上の反応はありませんでした。
30分程、そこに居たでしょうか。私達より後にやって来た、今も祖母の家で暮らしている父の妹と共に、祖母の家に移動しました。
玄関を開けた途端、懐かしい、祖母の家の匂いがしました。ここへ最後に来たのはいつだったでしょう。小学4年生の夏休みが最後だったかもしれません。
家中のあちこちに、私の生まれたばかりの頃から今までの写真が飾ってありました。ずっと昔に私がプレゼントした、祖母と私を描いたヘタクソなクレヨンの落書きもありました。
それらを見ている内に、私は段々と後悔の念に包まれていきました。
祖母は戦争で夫を亡くしました。孫は、私だけです。私が来ることを何よりも楽しみにしていたのも、知っていました。しかし私は、部活や勉強を言い訳にして、段々と祖母の家へ行くのを拒否する様になって行きました。
こんなにも想ってくれる人の事をなんでもっと大切にしなかったんだろう。
ある、夏休みの事です。祖母は私を川へ水遊びに連れて行ってくれました。もう帰ろうと何度も言う祖母を無視して、私は水遊びに夢中でした。そうして何時間も遊んだ後、祖母は帰宅すると高熱を出して寝込みました。熱中症でした。それでも祖母は、「また、川、行こうね」と言ってくれました。
田舎臭い料理が気に入らず、ふて腐れた私にオロオロして、慌てて出前を取ってくれた事もありました。
次々と思い出が蘇り、その分だけ、後悔は深まります。
祖母の死を知らせる電話があったのは、翌朝の4時でした。
駆けつけた時には既に、顔に白い布がかけられていました。握った手は硬直していて、もう、温かくはありませんでした。
それから一通りの儀が終わるまではあっと言う間でした。
初七日が済むまで残る事にした父を残し、母と私は一足先に、自宅へ帰る事になりました。
祖母宅を出る際、父の妹から紙袋を渡されました。高級ブランドのロゴが入った袋です。
中には、その高級ブランドのバッグが入っていました。そしてそのバッグには、お守りが結び付けてありました。
父の妹が言うには、祖母は私がきっと、受験が終わるとまた遊びに来てくれるだろうから、その時にはもう一人の大人なのだから、立派なものを、と言って、父の妹と一緒に買いに行ったのだそうです。
年金さえもらえてない、父の妹の稼ぎだけで生活している祖母達にとって、どれだけ大きな出費だったでしょう。私はまた、祖母から距離を置いていた事を後悔しました。
飛行機の中で、持って来ていたバッグの中身を、新しいバッグに入れ替えました。
初めて持つ、ブランドバッグです。私は少し、得意げに、見せびらかすようにして歩きました。結び付けられたお守りが少々、気にはなりましたが、外す気にはなれませんでした。
空港を出てモノレールに乗っていると、雨が降り出しました。
最寄駅に着いた頃には、雨は更に激しさをまし、10メートル前も見えない程でした。
駅から自宅までは、走れば3分程です。コンビニで傘を買い、母と二人で小走りで自宅を目指しました。
自宅の目の前の交差点に差し掛かりました。
ちょうど信号が点滅を始め、諦めた母は立ち止まりましたが、バッグが濡れるのが嫌だった私は、急いで走って渡ろうとしました。
その時です。
右折して来た車が、私めがけて突っ込んで来ました。大雨のせいで、私が見えていなかったのでしょう。
轢かれる! そう思い、体が固まり、立ちすくみました。その瞬間、何かにすごい力で引っ張られ、私は尻餅をついて転び、目の前すぐを、車が通り過ぎました。
後を見ましたが、誰もいません。
慌てて駆け寄って来た母も、何も見なかった、あなたが勝手に転んだ、と言いました。
あれは、何だったんだろう? 自宅に着いた私は、不思議に思いながら、濡れたバッグをタオルで拭こうとしました。
その時、気付きました。結びつけてあったお守りが、引き千切られたようにして、なくなっているのです。結び目の紐だけが残っていました。
あれは、祖母が引っ張って助けてくれたんだろうか? こんなに、薄情な孫だったのに?
私はこの時初めて、祖母の死に涙を流しました。
絵本
私は小さな頃から内気な性格でした。
幼稚園の頃はまだ、近所の子供達と一緒に遊んでいたような記憶があります。しかし、小学校に入学して以降、大人になった今まで、誰かを友達と呼べる関係を築けた事は一度もありません。
小学校低学年までは、表立ったイジメは受けていませんでした。ただ、独りで食べる給食や、独りで過ごす休み時間はとても惨めな気分でした。
3年生になると、休み時間等に私が教室に居る事が許されないような雰囲気になりました。独り、俯いて机に座っていると、わざと聞こえる様、コソコソと陰口を叩かれるのです。こっちまで暗くなりそうとか、教室にバイ菌が繁殖しちゃいそうとか……。
そんな空気に耐え切れず、可能な限りの早さで給食を食べ、昼休みは図書室へ逃げ込むようになりました。
元々、読書なんかには興味がなかったのですが、毎日通っているうちに、自然と本を読むようになりました。
最初は時間潰しでしかなかった読書ですが、気付けば、昼休みが待ち切れない程、図書室へ行くのが楽しみな読書好きになっていました。
棚の端から片っ端に読み耽りました。時には、放課後、学校が閉まる時間まで居残って読書し、読み切れないと自宅へ持ち帰って読む事もありました。
ズラリ並ぶ棚を読破して行くうち、低学年向けの絵本コーナーに差し掛かりました。
今更、絵本なんて、そう思って飛ばそうかとも思いましたが、たまには一冊ぐらい単純なものもいいかと思い直し、浦島太郎を手に取りました。
浦島太郎の話は、皆さんがご存知の通りです。助けた亀に連れられて竜宮城へ行く、あの、単純明快な勧善懲悪話です。
既に世間を捻くれた目で見るようになりかけていた私は、この本で純粋な童心を取り戻しました。素直に、人間とは、弱きを助けるべきだ、そうすれば、幸せになれるのだ、とすごく感動したのを覚えています。
その数日後の給食の時間です。
少しだけ開いていたドアの隙間から、野良犬が入り込んできました。食べ物の匂いにつられて入ってきたのでしょうが、一斉に騒ぎ出した生徒達に囲まれ、犬はパニックに陥っています。
ワイワイと皆が犬を囲む中、目立ちたがり屋の某が、犬を蹴飛ばしました。
別の生徒が、目の前に飛んできた犬をまた蹴ります。犬は悲鳴を上げ続けましたが、既にサッカーボール状態で、興奮しきった生徒達に止める気配はありません。
段々、犬の悲鳴が悲痛でか細くなっていきました。私は、先日の浦島太郎の事が頭をよぎり、咄嗟に生徒達の輪の真ん中に飛び出し、犬を抱え、止めろ! と叫びました。
すると、最初に犬を蹴った某が、今度は私を蹴りました。その後はもう、皆が寄ってたかっての集団リンチでした。
意識が戻ったのは、保健室のベッドの上でした。犬は死んだと、保健の先生は事も無げに言いました。私は、今日の事を親には言わないでと、懇願しました。
翌日から表立った、暴力的なイジメが始まりました。勧善懲悪なんか所詮は童話の中だけの話だったのです。
追いかけられ回され、ようやく図書室に逃げ込めた私は、浦島太郎を手に取るなり、床に叩き付けました。こんな本を読んだのが間違いだったのです。
浦島太郎は、ページの途中がめくれた状態で床に広がりました。
そこには、先日読んだ時とは違う絵が描かれていました。
私は、目を疑いました。確かにこの本は、先日読んだあの本です。しかし、今目の前にある浦島太郎は、亀をイジメている連中を、棒で撲殺しているのです。血しぶきが飛び散る様が、緻密に描き込まれています。
そういう事か。
私は、悟りました。
そうです。イジメッ子なんか、叩き殺せばいいのです。このまま私がイジメられ続ける必要なんか、ないのです。殺すまではしないにしても、それなりの報復をしよう、そう思いました。
翌日、早速行動に出ました。
登校してくるクラスメイト達を一人ずつ、待ち伏せして、バットで殴りました。全力で頭を狙いました。
その内の何人かが植物人間になりました。一生車椅子生活になった生徒もいました。
何人かには私が犯人である事がバレましたが、更なる復讐を恐れてか、或いは私をイジメていた後ろめたさ故か、親や先生に私の名前を出す者はいませんでした。
復讐は終わりました。しかし、楽しい学校生活が訪れたわけでもありませんでした。
皆、私を避けるのです。
結局、独りぼっちのままなんです。
また、図書室へ通うようになりました。
図書室で色々な本を読みながら、考えました。私の行動は、間違っていたのか。正しかったのか。いくら考えても、答えは見つかりませんでした。これから先、楽しい学校生活を送る希望も見えてきません。
私は間違ってなんかいなかったんだ、そう肯定してくれるものが必要でした。
自然と、浦島太郎を手に取りました。もう一度この本を読めば、自分は正しかったと再確認出来ると思ったのです。
冒頭から読み進めて行きます。
するとまた、不思議な事が起こりました。
今度もまた、最初読んだ時とも前回とも内容が異なっているのです。
前回は、イジメッ子達を撲殺した浦島太郎は、亀とともに望むもの全てを手に入れ、人生を謳歌し、大往生しました。
しかし、今回は、撲殺した後の展開が違います。
亀の背中に乗って海の中を進んで行った浦島太郎は、海の底で、亀に置き去りにされます。亀から離れた途端、呼吸が出来なくなり、慌てて水上へ向かおうとしますが、何かに足を取られて、動けません。浦島太郎はその後数十年間、酸素不足の苦しみを味わい続けて、やっと死に至ります。それまでの間、死の苦しみを味わい続けたのです。さぞ、苦しかったでしょう。
私は、ぞっとしました。
今、孤独の中に居る私。私のこの孤独という苦痛も、永遠に死ぬまで続くのだと思いました。
もう、死ぬしかない。死ななければ、苦しみがあるだけだ。そう思いました。
しかし、人間、簡単に死ねるものではありません。
図書室のある棟の屋上から飛び降りた私は、数日間の意識不明の後、半身不随と言語障害という重い後遺症を抱えて、この世に生還しました。
それからずっと、孤独な生活が続いています。
今は、母の年金だけで生活しています。
近い将来、母の死ぬ日が来ます。その時は、私も死ぬしかありません。
今度こそ、ちゃんと死ねればいいですが……。
フィギュア
私、オタク趣味なんです。腐女子ってやつですね。男の人同士が絡み合う漫画が大好きです。
そんなだから、いつも学校では孤立してたんですけど、私の趣味を理解してくれる友達が出来たんです。
その子、美沙って言うんですけど、美沙自身は私みたいに趣味にどっぷりってわけじゃなくて、現実の恋愛にも積極的です。もちろん、レズなんかじゃなくて、いつも男の子の彼氏を欲しがっていました。
でも、私もそうなんで余り他人の事を言うのは気が引けるんですけど、美沙、ルックスがちょっとアレだから、彼氏なんか出来ないわけですよ。色々な所に顔を出して、積極的に行動はしてたみたいなんですけどね。
それで、やっぱり恋愛関係で傷付いてばかりいると、どうしても自然と、自分の味方してくれる人に惹かれちゃうじゃないですか。
美沙の場合はそれが、実のお兄ちゃんだったんです。
そのお兄ちゃんもオタクの人で、ルックスもいかにもって感じです。太ってて脂ぎってて、いつも変な臭いがして……。二人が兄妹だという事を知らない人が見たら、オタク同士のカップルにしか見えなかったんじゃないでしょうか。
それぐらい、二人は人前でもいちゃいちゃしていました。
そんな仲の良い兄妹ですが、ある日、美沙がお兄ちゃんの部屋をノックもせずに開けたそうです。
すると、お兄ちゃんは背中を向けたまま顔だけこっちを向いて、すごい剣幕で「何だ! 見るな! 閉めろ! 」って怒鳴ったそうです。
お兄ちゃんに怒鳴られたのなんか初めてで、最初は意味がわからなかったんだけど、私と二人で話し合って、結論が出ました。
「オナニーしてた最中で、妹に見られたと思っちゃったんじゃない? 」と。
美沙はヤキモチみたいな気持ちと、お兄ちゃんがどんなので欲情してるのか確かめたくて、こっそり忍び込んで、お兄ちゃんの部屋を物色したそうです。
本棚には、Hな漫画本が沢山ありますが、そんなのは美沙にも前から知られていた事。
何かもっとすごい物を隠してるに違いないと思い、あちこち調べたそうです。
そして、机の引き出しを開けた時、一瞬戸惑い、そして、絶句したそうです。
そこには、30センチぐらいのフィギュアがありました。でもそのフィギュアが、普通じゃなかったらしいんです。
普通、フィギュアっていえば、ソフビといって、やわらかいビニールに塗装がしてあるだけです。しかしそのフィギュアは、人工とは思えない、本物の様な髪の毛、水気で潤んだ目玉、人肌のような質感の素材で出来ていたそうです。
余りにもリアル過ぎます。しかし、オタクの世界です。高価なフィギュアになれば、これぐらいのレベルの物があってもおかしくはないな、とか、お兄ちゃんてこんな子が理想なのか等と思い、フィギュアを元に戻して部屋を後にしたそうです。
ところが不思議な事に、その日から急に、お兄ちゃんが口をきいてくれなくなったそうです。
美沙は悩みました。人形を見た事はバレてないはず。他に何かした覚えもない。なんでだろう。せめて、急変した理由だけでも聞きたい。そう思い、兄の部屋の前まで行きました。
中からは、Hの最中らしき、喘ぎ声が聞こえてきたそうです。お兄ちゃんが女の子を連れ込むなんで考えられないし、テレビもないから、アダルトビデオでもないはずです。
しばらく聞き耳を立てていた美沙は、気付きました。この喘ぎ声、女の声じゃなく、お兄ちゃんが一人二役でHしてるかのように声を出していたんです。
それからは毎夜、お兄ちゃんの部屋から喘ぎ声が聞こえるようになったそうです。
お兄ちゃんは相変わらず、美沙を一切、無視し続けたそうです。
それから数日後。異変に気付きます。兄の一人二役だったはずの喘ぎ声が、明らかに、本当の女の子の声になっているのです。
美沙は、そっと、お兄ちゃんの部屋を覗きました。
そこには、フィギュア相手に腰を振っている兄と、それに応えて喘ぐフィギュアの姿があったそうです。
事が終わると、普通の恋人同士がするようなぴロートークをし、お兄ちゃんはフィギュアを引き出しにしまいました。
美沙は、お兄ちゃんがオカシクなってしまったのか、自分がオカシクなってしまっているのか、もう訳がわからないといった状態でした。事情を説明された私も、どう答えたらいいかわかりませんでした。
二人で考えました。こんな事になっているのは、あのフィギュアが原因なのは間違いありません。どんな理由があったとしても、お兄ちゃんを、あのフィギュアから引き離す必要があると考えました。
翌日、美沙は、部屋でくつろいでいたお兄ちゃんに向かって、廊下から話かけました。
「ねえ、お兄ちゃん。生身の、本当の女の子と、Hしたくない? いいよ、私、お兄ちゃんが相手なら」
お兄ちゃんは再び激怒し、大声で叫びながらドアに何かを投げつけたきり、反応はありませんでした。
その日の夜です。美沙がベッドの上で眠りに落ちかけたその時。腕に鋭い痛みが走りました。「虫かな? 」そう思いながら虫刺されの薬を取りに行こうと起き上がると、少しだけ空いたドアの隙間に、銃の様なものを構えた、あのフィギュアが立っていました。呆然とする美沙。フィギュアは瞬きしない目で美沙を見つめたまま、再び、銃を発射しました。ピンクのレーザ光線の様なものが光り、激痛が走りました。「止めて! 助けて! 」叫んでも攻撃は止まりません。美沙は痛みの余り、気を失ったそうです。
翌日、美沙は昨夜の傷跡を見せながらこの話を私にした後、まだ授業が残っているのに、どこかへ行ってしまいました。
美沙が高所から落下して砕け散っているのが発見されたのは、午後の授業も終わって、生徒達が帰宅し始めた頃でした。
あのフィギュアの正体はわかりません。
でも、私は思うのです。お兄ちゃんとフィギュアはきっと、互いに本気で愛し合っていたのです。そしてフィギュアにとって恋敵であった美沙は、フィギュアに抹殺されたのではないでしょうか。