spring
「いらっしゃいませ〜!お好きな所へどうぞ〜!」前の客の食器を片付け、長い年月をかけてこびり付いた油でベトベトのテーブルを拭きながら笑顔でありったけの声を出す。前掛けとお揃いの紺色の頭巾で纏められた長い黒髪の生え際から、汗が流れ落ちる。
大学を卒業してもう丸2年が経った。私は、大学を卒業してもそのままこの定食屋で働き続ける道を選んだ。もちろん、親や周囲の反対は大きかったけど、どうしても普通に就職して普通にOLらしい数年を過して、結婚して、子供を産んで、そういう風には出来なかった。
夢があったから。
きっかけは、偶然だった。友人の友人が劇団サークルをやっていて、その劇団の興行のチケットを義理で買わされちゃったから付き合ってといわれて。特に興味もなかったけど付き合いで観に行った。
普段はバンド演奏に使われているライブハウスにパイプ椅子が並べられただけの急ごしらえな小さい舞台だった。壁はミュージシャンの写真やサインで隙間なく埋め尽くされていて、そのどれもがタバコのヤニで黄色くぼやけてた。
客は30人も居ただろうか。出演者の両親らしき夫婦、出演者の彼女であろう貧乏臭い格好したサブカル風女、身内だけの小さなパーティ、そんな感じだった。
サークルのリーダーらしき若ハゲの人が暗いトーンでボソボソと軽い挨拶をした後、幕が開き、ステージは始まった。
思っていたのと、全然違った。始まった瞬間から、ステージに吸い込まれた。そして、賛辞の拍手の音で我に返るまで、茫然自失だった。
それでも今でも、その時のセリフのひとつひとつを、仕草のひとつひとつを、足音に合わせてステージが軋む音さえも、しっかりと覚えてる。
胸の奥で燃え上がる事が出来ないままの燻った想いが、一瞬の煌きに昇華されるその時に遭遇できたなら、もしも自分がその当事者となれたなら。それはどれだけ素晴らしいだろう。だけど多くの人はブスブスと燻ったままの想いを胸の奥に抱えたまま生きていく。
どうしたら煌く当事者となれるだろう、今の僕は間違っていますか、このまま続ければいつかきっとその時が来ますか。
将来への展望など何もないまま平凡な中高時代を過した。何の根拠もないのに、自分は特別だと思ってた。目の前には輝かしい未来が続き、自分が望む何者にもなれて、一生ニコニコと過すんだと思ってた。
しかし現実はそうではなかった。気が付けば大学受験に失敗し、浪人生活。周りには友達もおらず、ただ毎日、一人で過した。
一年後、大学に入ってからも特に何をするでもなく、誘われるままにイベントサークルに所属し、慣れない軽いムードの中、毎週末を飲み会とくらだないイベントで過してた。
もう、そんな自分の中には、未来や将来なんて言葉はなかった。
でも、決めた。私も、ステージに立つ。ステージの上から、これが私ですよって大声で伝えたい、そしてそれを受け止めてもらいたい。私がステージに立つ事で、誰かの毎日を素敵なものにするきっかけにしたい。より多くの人に、私の声を、想いを、伝えたい。
私の胸の奥にはまだ、消えては居ない、燻ったままの「想い」があったのだ。いつか、それが煌く瞬間が来る事を信じる。
19時に定食屋のバイトが終わり、22時まで稽古の日々が続いた。
大学の同期連中が合コンだいい男だなんだといってる中、私は店で、稽古場で、ありたったけの笑顔で、声を出し、体を動かし続けた。
ほんの少しずつ劇団の興行集客数が増えてきた。タウン情報誌にもインタビューが掲載されたりするようになっていって、その頃には私は主役を勤める立場になっていて、台本にも口を出すようになっていた。
稽古が終わり、みんなで繁華街へ出て、次公演のビラを配る。けれど受け取ってくれる人は少ない。
4月という季節柄、着慣れないスーツを着て泥酔している新社会人や新入学生たちで街は賑わっていた。
彼ら一人一人の胸の中にも、燻っている想いがあるのだろう。いつかそれが燃え上がり一瞬の煌きとなる事を信じているのだろう。だけど、そのための方法が見つからない。今はただ周囲に身を任せ、酔っ払っているだけ。それでも根拠のない理想で、自分の輝かしい将来を信じてる。
私は、酔い潰れた彼らの横で、黙々と、笑顔でビラを配り続ける。
今日も明日も。その先もずっと。
いつか、私の想いが一瞬の煌きに変わり、みんなに伝わる日が来る事を信じて。