絵本

 私は小さな頃から内気な性格でした。
 幼稚園の頃はまだ、近所の子供達と一緒に遊んでいたような記憶があります。しかし、小学校に入学して以降、大人になった今まで、誰かを友達と呼べる関係を築けた事は一度もありません。
 
 小学校低学年までは、表立ったイジメは受けていませんでした。ただ、独りで食べる給食や、独りで過ごす休み時間はとても惨めな気分でした。
 3年生になると、休み時間等に私が教室に居る事が許されないような雰囲気になりました。独り、俯いて机に座っていると、わざと聞こえる様、コソコソと陰口を叩かれるのです。こっちまで暗くなりそうとか、教室にバイ菌が繁殖しちゃいそうとか……。
 
 そんな空気に耐え切れず、可能な限りの早さで給食を食べ、昼休みは図書室へ逃げ込むようになりました。
 元々、読書なんかには興味がなかったのですが、毎日通っているうちに、自然と本を読むようになりました。
 最初は時間潰しでしかなかった読書ですが、気付けば、昼休みが待ち切れない程、図書室へ行くのが楽しみな読書好きになっていました。
 
 棚の端から片っ端に読み耽りました。時には、放課後、学校が閉まる時間まで居残って読書し、読み切れないと自宅へ持ち帰って読む事もありました。
 
 ズラリ並ぶ棚を読破して行くうち、低学年向けの絵本コーナーに差し掛かりました。
 今更、絵本なんて、そう思って飛ばそうかとも思いましたが、たまには一冊ぐらい単純なものもいいかと思い直し、浦島太郎を手に取りました。
 
 浦島太郎の話は、皆さんがご存知の通りです。助けた亀に連れられて竜宮城へ行く、あの、単純明快な勧善懲悪話です。
 既に世間を捻くれた目で見るようになりかけていた私は、この本で純粋な童心を取り戻しました。素直に、人間とは、弱きを助けるべきだ、そうすれば、幸せになれるのだ、とすごく感動したのを覚えています。
 
 その数日後の給食の時間です。
 少しだけ開いていたドアの隙間から、野良犬が入り込んできました。食べ物の匂いにつられて入ってきたのでしょうが、一斉に騒ぎ出した生徒達に囲まれ、犬はパニックに陥っています。
 ワイワイと皆が犬を囲む中、目立ちたがり屋の某が、犬を蹴飛ばしました。
 別の生徒が、目の前に飛んできた犬をまた蹴ります。犬は悲鳴を上げ続けましたが、既にサッカーボール状態で、興奮しきった生徒達に止める気配はありません。
 段々、犬の悲鳴が悲痛でか細くなっていきました。私は、先日の浦島太郎の事が頭をよぎり、咄嗟に生徒達の輪の真ん中に飛び出し、犬を抱え、止めろ! と叫びました。
 すると、最初に犬を蹴った某が、今度は私を蹴りました。その後はもう、皆が寄ってたかっての集団リンチでした。
 
 意識が戻ったのは、保健室のベッドの上でした。犬は死んだと、保健の先生は事も無げに言いました。私は、今日の事を親には言わないでと、懇願しました。
 
 翌日から表立った、暴力的なイジメが始まりました。勧善懲悪なんか所詮は童話の中だけの話だったのです。
 追いかけられ回され、ようやく図書室に逃げ込めた私は、浦島太郎を手に取るなり、床に叩き付けました。こんな本を読んだのが間違いだったのです。
 浦島太郎は、ページの途中がめくれた状態で床に広がりました。
 そこには、先日読んだ時とは違う絵が描かれていました。
 私は、目を疑いました。確かにこの本は、先日読んだあの本です。しかし、今目の前にある浦島太郎は、亀をイジメている連中を、棒で撲殺しているのです。血しぶきが飛び散る様が、緻密に描き込まれています。
 
 そういう事か。
 私は、悟りました。
 そうです。イジメッ子なんか、叩き殺せばいいのです。このまま私がイジメられ続ける必要なんか、ないのです。殺すまではしないにしても、それなりの報復をしよう、そう思いました。
 
 翌日、早速行動に出ました。
 登校してくるクラスメイト達を一人ずつ、待ち伏せして、バットで殴りました。全力で頭を狙いました。
 
 その内の何人かが植物人間になりました。一生車椅子生活になった生徒もいました。
 何人かには私が犯人である事がバレましたが、更なる復讐を恐れてか、或いは私をイジメていた後ろめたさ故か、親や先生に私の名前を出す者はいませんでした。
 
 復讐は終わりました。しかし、楽しい学校生活が訪れたわけでもありませんでした。
 皆、私を避けるのです。
 結局、独りぼっちのままなんです。
 また、図書室へ通うようになりました。
 
 図書室で色々な本を読みながら、考えました。私の行動は、間違っていたのか。正しかったのか。いくら考えても、答えは見つかりませんでした。これから先、楽しい学校生活を送る希望も見えてきません。
 私は間違ってなんかいなかったんだ、そう肯定してくれるものが必要でした。
 自然と、浦島太郎を手に取りました。もう一度この本を読めば、自分は正しかったと再確認出来ると思ったのです。
 
 冒頭から読み進めて行きます。
 するとまた、不思議な事が起こりました。
 今度もまた、最初読んだ時とも前回とも内容が異なっているのです。
 前回は、イジメッ子達を撲殺した浦島太郎は、亀とともに望むもの全てを手に入れ、人生を謳歌し、大往生しました。
 しかし、今回は、撲殺した後の展開が違います。
 亀の背中に乗って海の中を進んで行った浦島太郎は、海の底で、亀に置き去りにされます。亀から離れた途端、呼吸が出来なくなり、慌てて水上へ向かおうとしますが、何かに足を取られて、動けません。浦島太郎はその後数十年間、酸素不足の苦しみを味わい続けて、やっと死に至ります。それまでの間、死の苦しみを味わい続けたのです。さぞ、苦しかったでしょう。
 
 私は、ぞっとしました。
 今、孤独の中に居る私。私のこの孤独という苦痛も、永遠に死ぬまで続くのだと思いました。
 もう、死ぬしかない。死ななければ、苦しみがあるだけだ。そう思いました。
 
 しかし、人間、簡単に死ねるものではありません。
 図書室のある棟の屋上から飛び降りた私は、数日間の意識不明の後、半身不随と言語障害という重い後遺症を抱えて、この世に生還しました。
 
 それからずっと、孤独な生活が続いています。
 今は、母の年金だけで生活しています。
 近い将来、母の死ぬ日が来ます。その時は、私も死ぬしかありません。
 今度こそ、ちゃんと死ねればいいですが……。