二人のスタート

 「あんた、暗いね。」
 「え、あ、うん……」
 「いっつも書いてるそれ、何?」
 「え、あ、うん、それは……」
 「だからぁー。暗いね、あんた。なんですぐ黙り込むかな。で? 何? それ」
 「え、映画! 映画のきゃく、ほ、ん……」
 「へーえ。映画好きなんだ。将来は監督になりたいと。暗いわりには大胆な夢ねぇ」
 「う、うん……」
 「でも、いいんじゃない? 私ね、私もね、将来は、映画なの。女優。じゃ、せっかくだから、こうしようよ。君のデビュー作、私が主演してあげる。ね、どう? いい話でしょ? でも絶対にいい作品に仕上げてよね」
 「あ、う、うん……」
 「なーに、それ。私じゃ嫌?」
 「あ、いや、嫌なんかじゃ……」
 「じゃ、約束成立ね。忘れないでね。それじゃね、ばいばい!」



 あの時、美紀がどうして僕に話しかけて来たのか。どうして僕と付き合おうと思ったのか。気まぐれなあいつの事だから、特に理由はなかったのかも知れない。或いは、映画の神様の思し召しだったのかもしれない。今となってはもう理由はわからないけれど。クラスどころか学校中のアイドルだった美紀。そんな美紀など別世界の高嶺の花で、オナニーのネタとしてしか接点のなかった、根暗で映画だけが生きがいだった僕。その二人が、周囲の驚きと羨望の眼差しの中、付き合いだした。
 高校を卒業すると、目まぐるしく季節が変わり、二人の夢を急かせた。僕は一浪して芸大へ入り、映研サークルに入って活動を始めた。美紀はコンビニでフリーターをやりながら劇団での活動とオーディション参加を続けた。そんな慌しく過ぎていく毎日の中でも、二人の関係は不変のまま続き、僕が大学2年、21歳の時に同棲を始めた。
 女優志望の売れない劇団員と、映画監督志望の貧乏学生。6畳一間で、掴める確かなものなど何もないまま、不安をかき消すようにただただ抱きしめあいながら過す日々。華やかな世界を夢見る二人の生活は、そんな華やかさなんて言葉とは正反対の、同世代の連中から見ればとても信じられないような地味なものだった。だけど、二人で耳を塞いで、周りなんか見ずに、夢だけみようって、そう約束した。二人でなら、きっとやれる、そう思った。そう思わずにはやっていけなかった。
 しかし、消耗するばかりで前へ進まない毎日の繰り返しは、不変だったはずの二人にも無関係ではなくなっていった。二人はいつしか前進出来ない焦りを互いにぶつけ合うようになった。くだらない事で口論して無言のまま別々に寝る。そんな事が当たり前になっていった。
 六畳一間を照らす裸電球がジリジリと音を立てながら点滅を繰り返す。それはまるでこのまま消えてなくなってしまいそうな二人の生活の、近い将来を暗示しているようだった。
 それでも、今にも消えてなくなってしまいそうな二人の生活は、頼りなく点滅しながらも、絶える事がなかった。夢があるから。それだけが二人を支えた。

 大学を卒業した僕は映画制作会社でアシスタントを始めた。しかし給料は安く、経済的には大学時代よりも更に厳しくなった。
 アシスタントの仕事はほぼ24時間労働といってもよいほど過酷だった。ありとあらゆる雑用と理不尽を押し付けられ、その全てに「はい、わかりました。今すぐやります!」と答え、行動する。しかし、磨り減っていく体力と精神のキシミを、映画に関わっていられるという悦びが上回っていた。
 そして、グルグルと目まぐるしく変わっていく季節の中で、いつしか美紀の存在は小さいものとなっていった。

 「こうやって二人で飲めるの、随分久しぶりだね」
 「ああ」
 「撮影、一段落したんだ?」
 「ああ」
 「ああ、ああ、って。アシスタントの仕事が大変で疲れてるのはわかるけど、なんかしゃべってよ」
 「ああ」
 「もう。そういえばさ、ほら、私この前、バイト変えたって言ったじゃない?」
 「そうだっけ?」
 「なーんにもひとの話聞いてないわけね」
 「いやそういうわけじゃ……」
 「うふふ。そういう所、変わんないね」
 「何が?」
 「ううん、なんでもない」
 「あのさ、」
 「嫌だ」
 「まだ何も言ってないだろ」
 「その顔は嫌な事いう時の顔だもん」
 「そんなんじゃないよ。海だよ。海。海、行かないか、これから」
 「ほらきた。やっぱり。あんたがいつも嫌な話する時のお決まりじゃない」
 「じゃ、行かないわけ?」
 「どうせ、嫌って言っても、無理矢理連れて行くでしょ?それで、嫌な話するんでしょ?」
 「そんなこと、ない、ないよ……」

 5月の夜の潮風はまだ冷たく、酒で高揚した二人の頬を程よく冷ましてくれた。辺りには誰も居らず、満月だけが優しく水面を照らし、波が穏やかに煌いていた。二人、無言のまま、砂浜を歩く。美紀はうつむいて黙り込んだまま、僕が話し出すのを待っている。話すきっかけが掴めなくて、沈黙に耐えられなくて、戯れに波打ち際に行って、海水に触れた。冷たい。
 「きゃっ! 冷たい! この!」
 「うわ!やめろって! 冷たいって!」
 「ほりゃほりゃほりゃっ!」
 「ばっか、マジで冷たいからやめろって!」
 僕は美紀の手を無理矢理掴んだ。急に静かになって見つめ合う二人。そして、目を閉じる美紀。
 「美紀、あのな、」
 「やだ! 聞かない!」
 「聞いてくれ!」
 「やだもん! 聞かないもん!」
 「落ち着けって」
 「落ち着いてるもん!」
 「あのな、あのな、」
 「やぁああああ!!!!!!!」
 美紀はそう叫びながら耳を塞いでしゃがみ込んだ。海水に浸かったスカートの裾が、波に合わせて揺れていた。

 「立てよ。濡れるから」
 必死で僕の手をふりほどこうとする美紀を無理矢理引き寄せ、立ち上がらせて話を続けた。
 「もう、限界だよ。俺たち」
 「そんなのわかってるもん」
 「だったら素直に話聞けよ」
 「あんた、もうずっと映画しか見えてない。何にも上手く行かない私なんてお荷物なだけ。そんなの、わかってるもん!」
 「おい、ちょっ、何言ってるんだよ、落ち着けって」
 「落ち着いてるもん! 私は、女優諦めてない! 諦めない! あんたの事も諦めない!でも、あんた、あんたはもう、映画しか見えてないんでしょ?」
 「ああ。そうだよ。俺、もう、映画しか、見えてないよ」

 波打ち際に二つ並んでた貝殻が、片方だけ波にさらわれて、消えた。



 5年後

 「よお! どうだ、調子は?」
 「いやまだ、これから始まる所っすから……。わざわざ来て頂くなんて、すいません、監督」
 「バーカ野郎! 今日は、ここは、お前が監督だろうが!」
 「はぁ、そうっすよね、でもまだなんか、実感なくって……自信もないっていうか……」
 「なーに言ってんだ、お前、お前はな、はっきり言って才能なんかねえぞ」
 「あ、あはは……」
 「でもな、お前、俺の下で8年もやって来たんだ。わかるか? 俺の下で8年だ。すごいんだぞ、それって。最初見た時はなんだこの根暗、一日も持たないなって思ったけどな。8年も持ったのはお前が初めてだ。皆、最初だけは威勢がいいんだが、すぐに逃げ出しちまう。夢だなんだって偉そうに語っといてよ。すぐにケロっとした顔して、『夢にも色々形がある事に気付いたんです。別の夢追います』と来るんだ。辛くて逃げるだけのくせになぁ。でも、お前は違った。だから、な、もっと胸張って堂々としろ」
 「はい」
 「台本、読ませてもらったよ。『新進気鋭の監督が、等身大で青春の日々の全てを描く』、そんなところか。よく書けてると思うよ。絶対、いいモノ出来るよ。この俺が言うんだ、間違いねえ。お前、あれだろ。学生の頃なんか、友達もいなくて毎日映画ばっか見てたようなタイプだったろ? 俺もそうだったから、わかるよ。他の連中が楽しくやってる時、お前は映画館の暗闇の中で過したんだろ? 暗闇の中で、いつか自分でも映画撮るぞって思ったんだろ? そして全てを捨てて、今こうやって、監督デビューなんだろ」
 「そうです。俺、映画、映画しか、ないですから」
 「おう、そうだよ、その顔だよ。監督がしけた顔してると皆に影響するからな。今の顔忘れんなよ。今のお前、いい顔してるよ。それにしてもなぁ。なんで無名なお前なんかのデビュー作に、こんな今をときめく大女優が? どんな手使ったんだよ」
 「いや、はは、それは、その……」
 「まぁいいや、この世界、いろいろあらあな。それから、あれだ。自分の撮った映画を沢山の客が見つめて涙流してるのを見るのは、何回経験してもいいもんだぞ。じゃ俺はこれで。がんばれよ、監督さん」
 「はい! がんばります! 今日はありがとうございました!」

 「あ、監督、こんな所にいたんですか! 美紀さんのスタンバイOKです! お願いします!」

 「じゃあみなさん、これから撮影始めます! よろしくお願いします!」