窓を揺らすカーテン
スーツ姿のサラリーマン達や寄り添い合うカップルたちがそれぞれ思い思いの店へと吸い込まれていく。私は、店の前まで来たものの決心がつかず、ドアノブに手をかけては辺りを歩き回るという行動を繰り返していた。この季節にしてはやけに暑い夕暮れ。長袖のブラウスを着た私の腕と首には、汗でベッタリと布と髪が張り付いていた。
決心がついたからか。暑さから逃れるためか。太陽がビルの向こうへ消えようという頃、やっと私は、ドアを開けた。ドアを開けるのと同時に、ひんやりとした冷たい空気に包まれる。中には女性の店員さんが一人だけいて、何やらカウンターの中で作業をしていた。まだ準備中だったのだろうか。店員さんは少し驚いたような顔をして、「いらっしゃいませ、どうぞお座りください」と言った。カウンターに座り、荷物を置き、メニューに目を通す。「何になさいますか?」「あの、イチゴミルクのやつを、おまかせで。それと、チーズを」
店員さんが有線のスイッチを入れ、店内がピアノジャズの小さな音で満たされる。やがて、ピンク色した可愛いカクテルが目の前で手際よく注がれた。イチゴミルクのカクテルは渇いた喉に心地よかった。たまらず、プハァー、と声を上げてしまい、慌てて後悔した。気まずさを誤魔化すように、店員さんが話しかけてきた。「はじめて、ですよね?」「ええ」「うふふ、ようこそ。誰かから聞いて来られたんですか?」「ええ、まあ、そんな所です……」そしてまた有線の微音だけで満たされた沈黙の空間となった。それにしてもこの店員さん、とても綺麗だ。24,5歳といったところだろうか。長いまつ毛が印象的な大きな瞳。嫌味さも夜の商売である事も感じさせないナチュラルな化粧。瑞々しい真っ白な肌とは対照的に、大人びた表情。長く綺麗な髪はひとつに束ねられ、黒いズボンに白いブラウスという服装とともに、清潔感を感じさせた。キャンドルがメインの薄暗い明かりに照らされるそんな彼女にみとれていると、私の視線に気付き、これまた大人びた表情で微笑んだ。きっと、この子だ。この子に違いない。そう確信した。根拠はないけれど、確かな自信があった。女の勘というやつかもしれない。
最近、徹の様子がおかしい。最初に気付いたのは一月前。いくら起こしても目覚めない徹にあきれながら洗濯しようとしたシャツから、香水の香りがした。問い詰める事を躊躇った私。それを機に、優しい男へと急変した彼。先にベッドに入っていた私に、帰宅するなり覆い被さって来た徹から、酒の臭いとともに香水の香りがした事もある。行き先も言わず出かける事も多くなった。このまま気付かないでいるふりをしよう。そう思った。そうすれば、ずっとこのまま続いていける、と。それが彼を愛する女、賢い女なのだ、と。頭の中では論理的にそう思えた。とはいえ、嫉妬の念がないかといえばそんな事はない。どんな女なのか? どちらから誘ったのか? どこまでの関係なのか? どうやって知り合ったのか? 当然のように、知りたい欲求に襲われた。
「どうですか?」「とてもおいしいです。どこかで修行されてたんですか?」「そうなんです、このためにヨーロッパの色々な国々を移りながら働いて勉強しました」「それで帰国してこのお店を?」「ええ、帰国した時は一文無しで親にも勘当されていましたから。働いて、貯金して、去年やっとこの店を持てたんですよ」一文無しの女性がこの街でこんな店をもつなんて、そう簡単に出来る事じゃない。どうやってお金を貯めたのか、それはあえて聞かなかった。
それからの事はよく覚えていない。彼女の作る様々にアレンジされたイチゴミルクのカクテルを何杯も飲み干しながら、色々な話をした。集団客がやって来た所で、入れ替わりに店を出た気がする。
翌日、昼過ぎにようやくベッドから這い起きた。どうやら今日も暑いらしい。汗まみれだし、後頭部が酷く痛い。水を求めて向った台所には、使ったまま洗われていない皿とコップで溢れていた。皿の汚れは乾燥していて、簡単には落ちそうにもなかった。台所に続いているリビングからはテレビの声が聞こえ、それが頭痛に追い討ちをかけ、私を更にイライラさせる。それに被さって、徹の笑い声が聞こえてくる。徹はTシャツにトランクスひとつという姿でテレビの前に寝転んだまま、こちらを振り向く事もなかった。
「使った食器はすぐ洗いなさいよ」
「昨日どこに行ってたんだよ」
「私の話聞きなさいよ。あんたにいう理由はないわよ」
「心配するだろ」
その間も、こちらを振り向かないまま、テレビの方を向いたままだった。
化粧台に座り、スッピンの自分の顔を見るでもなく、見ないでもなく、昨夜の彼女の顔を思い返しては、自分の顔と比べた。徹はさっきから変わらぬまま、数分おきに、あはははと笑い声を上げている。
「昨日、行って来たよ」
せいいっぱい冗談ぽく、言った。
「どこに」
「だから、行っちゃったんだ」
徹がこちらに振り返る。
「彼女の店、行ったんだ」
再びテレビの方を向き、少しイライラした様子で答える。
「彼女のってなんだよ」
「あの店の子なんでしょ、あなたの浮気相手」
テレビの方を向いたまま上体を起こし、あぐらを組む。
テレビの音だけの沈黙が続いた。蒸し暑い部屋の温度がグンと下がった。やっぱり、あの店だった。あの子だった。勘は当たっていた。何と言えばいいのだろう。ここから先の事は考えていなかった。あるいは、怖いから考えないようにしていたのだ。これ以上、確かめようとするのは意地悪だろうか。これ以上問いただすのは、私にとって、二人にとって、どんな結末を導くだろうか。ここで切り上げて話題を変えれば、また今までと変わらない二人の生活が続いていくのだろうか。
考えがまとまらず戸惑うばかりの私に、背を向けたままの徹は、諦めたように、けれど少しだけ冗談ぽく、小さな溜息をついた後に、言った。
「美味しかった?」
テレビがCMへと切り替わり、窓からは少し熱い風が吹き込み、カーテンをユラユラと揺らした。