ハラリ、舞う
極限に達しつつある尻に全神経を集中しつつ、辺りを見渡し誰もいない事を確認して、職員用トイレへと入った。便器へ近づくのに比例して激化する尻の爆発欲求。蹴破るようにしてドアを開け、パンツを下ろしたのと全く同じタイミングで、爆音とともに糞が噴出する。「あぁ〜」思わず声が出た。それにしても間に合ってよかった。誰もいなくてよかった。いくらなんでも、俺が学校で糞をしたなんて絶対に他人には知られてはいけない。大人は「大便は普通です。決して特殊な事ではありません。何故恥ずかしがるのですか。堂々としなさい」なんて事をいう。まるでわかっちゃいない。全登校拒否児の理由を調べてみろ。『学校でうんこしたのがバレたから』は絶対に上位に来るはずだ。安堵感に包まれて、そんな事をぼんやりと考えていた。そして、やって来た第2波を放出するのに夢中になっていた。気配に全く気付かなかった。
カシャリ。突然の電子音にビクりとしながら、反射的に上を見る。天井から壁越しに、携帯電話を構えて俺を見下ろす佐藤の顔があった。「よぉ、志村君」逆光でよく見えないが、ニヤニヤとした表情を浮べているのは確かだ。
「志村君がうんこしてたって。皆に言っちゃおうかな、俺」
「ちょ、ちょっと待てよ。テメーふざけんなよ」
自分の声に被さるようにして、第3波がやってきて、再び破裂音が鳴り響く。
「学校でうんこなんかして。恥ずかしいね」小馬鹿にしたように佐藤が言う。
「テメーちょっと待てよ。マジふざけんなよ。テメー殺すぞ」うろたえて叫ぶ。
「そのカッコで?うんこしながら殺すの?」
少しの沈黙の後、佐藤が小さい声でポツリ、つぶやいた。
「志村君、東とやったんでしょ」今まで聞いた事のない、冷たい声だった。
「いや、ちょ、それはお前……」
「うるさい!」鋭く、さえぎられる。
「俺が東の事を好きなの知ってたくせに。だから面白半分で東とやったんだよね」「東さ、志村君に誘われた時、うれしくって皆に報告しまくってたんだってさ。志村君に処女奪われた日も、友達に報告の電話しまくったんだってさ」「でもさ、志村君。志村君が東をやり捨てたって得意げに話してたって、遊びだって話してたって。東、それ聞いて、自殺未遂したんだよ」「知らなかったでしょ。東、傷ついてたんだよ。すごく」「東だけじゃない。志村君がやりすてた女は皆、みんな、泣いてるんだよ。傷ついてるんだよ」返す言葉が見つからず、黙り込んだまま第4波を我慢したままの俺に向って一方的にまくしたてた。
「だからさ、ほら、これ。俺、志村君をこれで刺すよ」逆光の暗い景色の中、ナイフの先端がキラリと光った。
「ちょっと待てって。お前何言ってんだよ、お前女出来た事ないだろ。男と女には色々あるんだって。俺ばっかそんな悪いみたいに言うなよ。話せばわかるって」
「うるさい! 志村君のせいで東は死にそうになったんだよ。だから志村君には死んでもらう」
ゴクリと喉を鳴らしながら唾を飲み込んだ。佐藤の顔は泣いているようにも見える。
沈黙の中に我慢の限界が来て、第4波を放出しながら考えた。こんな冴えないパシリの童貞に、なんで、たかが同じクラスの女とやったぐらいで刺されなきゃいけないんだ。俺ら中学生だろ。ガンガン女いって、数こなすのが当たり前じゃないか。やった数の多いやつが偉いんだよ。テメーが誰を好きだろうと知ったこっちゃねえよ。どうせテメーも俺があいつとやってる所想像してオナニーでもしたんだろ。そうに決まってる。こんな何もわかってない童貞に怯えてる自分が段々馬鹿らしくて腹が立ってきた。でも、佐藤の眼光があまりにも冷たく鋭すぎて、態度に出す事は出来なかった。なんとかやりすごさないと。
「わかったよ。でもちょっと待ってくれよ。俺今、糞してるだろ。いくらなんでもこんなカッコじゃ死にたくない。せめて、尻を拭いてからにしてくれ」
「そう」佐藤は恐ろしく冷静で抑揚のない声でそういうと、壁を乗り越え、俺の目の前に立った。そして、鼻先には、鋭く尖ったナイフの先端があった。
佐藤の顔を見ながら、手探りでトイレットペーパーの場所を探り当て、千切り、尻を拭く。紙についた糞を確認して、それを便器に落とす。繰り返すその行為ごとに、紙につく糞の色が薄くなっていく。この紙に糞がつかなくなった時、俺は、刺される。ブルブルと手が震えだし、まともに紙を掴めない。
「早くしなよ」泣いているような、冷たい目のまま、俺を見下ろしている。
どうすればいいだろう。四方を壁に囲まれたこの狭い空間に、逃げ道はない。上から這い出る事も無理だろう。尻を拭いた紙を見る。もう糞はついていない。俺がこの紙を手放すと同時に、やつはためらい無く、ナイフを突き立てるだろう。一か八か。刺される瞬間、白刃取りの要領でやつの手を掴み、ナイフを奪い取るしかない。ナイフさえ奪えばこんな雑魚、グチャグチャに出来る。しかし、コンマ1秒でも早ければ手を切られ、コンマ1秒でも遅ければ、胸を突かれるだろう。いっそ、土下座して許しを請うか。いや、こんなやつにそれは出来ない。それなら死んだ方がマシだ。やはり、奪い取るしか手段はない。
紙を持ったまま見つめ合い、時間と空間が固まる。心臓の鼓動だけが響き渡る。大丈夫だ、どうせこいつは今まで人なんか刺した事ないんだ。取れる。きっと取れる。息を整える。大丈夫だ。覚悟が決まり、佐藤をギリリと睨んだ。
「上手く掴みなよ」全てを見透かしたかのように、ポツリ、呟いた。
まるで耳元で死神が囁いたかのように思えた。全身の力が抜け、右手からハラリ、紙が舞い落ちた。