カーテンの隙間から、冷たい夜風に晒されて震えている、星たちが見えた。星々は今にも街の喧騒にかき消されそうになりながら、しかし、確かに、かすかに、光を放っている。
 
 気がつけば冬も目前。高校を卒業するまで、残り4ヶ月。近所のスーパーでのバイトを続ける事にしている美智子には、受験の心配もなく、もう何も、高校生らしいイベントは残っていなかった。後はただただ、今までどおり、卒業を待つだけ。とは言え、美智子は元々、高校生生活を楽しんでいたわけではないし、むしろこの地獄のような毎日から早く逃げ出したい、常にそう考えていた。だから、イベントの有無なんて関係のない事、残り4ヶ月ある、ただそれだけの話なのだ。
 
 隣の部屋で母が眠りについたのを確認すると、美智子はカーテンの隙間をキッチリと閉じ、部屋の明かりを消して、机の灯りを点けた。引き出しから、タッパーと紙袋を取り出す。タッパーのフタを開けると、所々が錆びたカミソリが、光を反射した。
 カミソリを手に取り、色々と角度を変えてみる。それにあわせて、光が様々に反射してみせる。初めてこれを手にしたのは、もう2年も前の事だ。ボロボロと欠け落ちた歯と錆が、確かに2年の時が経ったのだと、証明している。
 カミソリを一旦置くと、紙袋から錠剤を取り出し、鉛筆の背で、粉状に砕き始めた。およそ30分程、何かに取り付かれたかのように、グリグリグリグリと、すり潰した。作業の間、頭と心は真の空となり、何も聞こえない、何も感じない、何も思わない、澄み切った、黒だ。そうして、1シート分が一通り粉になると、顔を近づけ、鼻から吸う。鼻の奥の何かが、熱く熱く熱をもって、大きく腫れ上がってくるのがわかる。動悸が大きくなり、体全体が大げさにビクンビクンと脈打つ。と同時に、強烈な吐き気に襲われて全身が前のめりに硬直する。おかまいなしに吸い続ける。やがて全ての粉がなくなり、最後の一粒を指ですくって舐めると、鼻血が垂れてきた。
 垂れた鼻血を一口舐めると、再びカミソリを手にした。この頃になると、さっきまでの無感情な顔は消え失せ、淀んだ目が左右バラバラにユラユラとさ迷い、口元はヒクヒクと痙攣して、恍惚の笑みを浮べていた。
 視界を遮る髪の毛が邪魔だった。腰まである髪を無造作に掴むと、躊躇無く、ザクリ、と切った。掴んでは切り、掴んでは切り、いくら切っても、邪魔な髪の毛は消えなかった。
 やがて諦めたのか、切り取られた髪の毛を乱暴に払いのけると、左腕の袖をまくった。手の甲から肩までビッシリと、縦横無尽に、線状に盛り上がっている傷跡があった。そのいくつかはまだ生乾きだったり、絆創膏が貼られていたりする。
 まるで産毛でも剃るかのように、手首から肩までを、何度も何度も、歯の先端で撫でる。やがて、肘の少し下辺りで、ピタリ、と歯が止まった。肘の少し下の、外側。そこだけまだ、綺麗な、白い色をしていたのだ。
 カミソリの動きにあわせて、少しずつ血が滲み、一本のハッキリとしない線になる。一瞬遅れて、鈍い痛みが来て、それは脈動と連動する、鋭く大きな痛みとなっていく。カミソリを置き、写メを撮る。さっきのほんの少し横に、再び、並行に線を引く。何度も繰り返す。さっきまで白かった肌は、すっかり碁盤の目状に赤く染まってしまった。足りない、そう思った。タオルで乱暴に血を拭うと、プルプルと震える程強く握り締めた右手のカミソリを、突き刺した。その時初めて、ほんのわずかに、うっ、という声が漏れた。脳の中の奥の方で、弾けるような痛みを感じた。再び震える右手を振りかざし、突き刺す。視界が白黒に点滅する。体が浮遊感に包まれる。突き刺す。点滅の度に、天高く上昇していく体。体はやがて地上から大きく離れ、今や地球をはるかかなたに小さく見下ろす。まだ、足りなかった。根元まで刺したカミソリを、そのまま手首まで引いた。骨にひっかかり、右手から置き去りにされたカミソリが床に落ちた。
 満足したのか、慣れた手つきで傷口をホッチキスと瞬間接着剤で止めると、包帯を巻き、始終を撮影した写メを携帯ブログにアップした。一通りの作業が終ると、椅子ごと倒れこんだまま、眠ってしまった。
 
 儀式の翌日の目覚めは、決まって同じ夢だ。街中に全裸で縛られた自分を、通りすがりの見ず知らずの人々が、思い思いの方法で好き勝手に傷つけ、何も言わず去って行く。ある者は素手で殴り続け、ある者はナイフで切りつけ、ある者はライターでじっくりとあぶる。灯油をかけて火をつける者もいるし、指先から少しずつ肉片を削り取っていく者もいる。ノコギリで首を切り取ろうとした者は、あえて、最後の一皮を残した。殺さずに、苦しめ続けるためだ。ガクンと垂れ下がった頭が、今にも千切れそうな皮膚に支えられてブランブランと揺れた。その度、痛みに悲鳴を上げ、泣き叫ぶ。だけど、誰もこちらを向いてはくれない。やがて、この頭と腕の痛みは夢ではなく、現実のものだと気付き、目が覚める。
 
 マスコミや無知な人々は、リストカットする少女達の事を、「擬似死体験を求める行為だ」などという。しかし、それは現実とは異なる。多くのリストカッターは、死など望んではいない。逆に、自分が生きている事を、自分が1個の生命体である事を、確認するために、行うのだ。
 
 美智子の場合も、そうである。
 高校でも運よく同じクラスになれた、中学からの部活仲間だった二人とともに、バスケ部に入った。しかし、先輩達の理不尽で執拗な虐めに遭い、夏休みを直前にして、退部した。最初は、虐められているという自覚さえなかった。それは、これまでの美智子がイジメなんてものとは無関係だった事もあるが、それよりも、やり口が陰湿であったのだ。練習中、視界の外からボールが飛んでくる事が多くなった。やがて、練習着の股間の部分が裂けていたり、靴の紐がなくなっていたりした。それでもまだ、何かの偶然だ、ぐらいにしか思っていなかった。応えない美智子に痺れを切らしたのか、イジメは直接的で、過激なものになっていく。美智子がイジメの対象になっていると悟った1年生達は、美智子と距離を置き、傍観した。常識的に考えて、1年後、2年後、自分達が上級生という立場になった時、間違いなく、美智子は中心的な立場にいるだろう。だから、今のうちから美智子の味方を装い、取り入る方が賢いのだ。しかし、今、間に入って巻き添えになる程の勇気のある者は居なかった。それでも、二人だけの味方を頼りに、練習に出続けた。しかしそれも、下着姿のまま更衣室から蹴り出され、「辞めないと殺すよ」という一言を放たれた事で、終わりとなった。下着姿のまま、下を向いて、しゃくり上げた。他の部の者達が何事かと集まってきて、遠巻きに囲む。恥ずかしいという気持ちはなかった。そして誰も居なくなるまで、少しずつ広がっていく涙の溜まりを、呆然と見つめた。イジメの対象になった理由はなかったのかもしれない。或いは、気さくで人見知りせず、他校の男子生徒とも自然体で談笑し、誰からも好かれる美智子への、嫉妬だったのかもしれない。実際に、美智子への性的興味を露にする男子も多かったし、見知らぬ男子に突然告白されるなんて事も、珍しい事ではなかった。美智子は、他校にまで名前が知れ渡るほどの、非の打ち所のない、素敵な女の子、だったのだ。
 高校生にとっての、夏休みの40日間は、長い。それまでは何をするにも3人一組だったが、朝から夕方までバスケの練習と遠征に追われる毎日を送る二人と、何もする事がない美智子との間に溝が出来ていくのは、当たり前の事だった。あれほどおしゃべりし、何往復もメールし合っていた間柄なのに、段々とメールへの返信は減り、お盆を過ぎた頃には二人とは完全に音信不通となった。しかしまだ、この頃は、自分が孤立しているという自覚はなかった。むしろ、四六時中携帯を気にしていなくてもよいという開放感に、喜びを感じていたかもしれない。毎日昼過ぎに起き、母が作り置きした昼食をとり、漫画を読む。ワイドショーを見る。ドラマの再放送を見る。深夜ラジオでお気に入りの若手お笑い芸人のトークを聞きながら、遅い眠りにつく。同級生たちが熱気でどんよりと揺れるゴールの下で走り回っている時、美智子は一度も汗をかく事なく、夏休みは終った。
 そして9月1日の朝、自分が孤立しているんだという事を、早速思い知らされる事になる。朝礼が終わり、全校集会のために、生徒達はそれぞれが思い思いのグループとなり、談笑しながら、体育館へ向う。机から立ち上がり、二人の方を見た時には、かつての友の姿は、既になかった。胸に、痛みを感じた。立ち上がった姿勢のままで、ゴクリ、と唾を飲み込んだ。自分は、独りなんだ、その現実を、理解はしているのに、認める事が出来なかった。たまたまだ、たまたま、二人はおしゃべりに夢中になっていて、つい私の事を置いて行ってしまったんだ、そう言い聞かせた。何度もそう言い聞かせたが、胸の奥から、経験した事のない不安が押し寄せてくる。脈動に合わせて押し寄せる胸の痛みを感じながら、俯いたまま、体育館へ続く渡り廊下を歩く。周囲の生徒達は、久しぶりの再会のせいか、高いテンションでしゃべり、笑い合っている。誰一人、美智子に話かける者はいない。
 エアコンのない体育館に、全校生徒約700人が集まっている。10代の少女達の放つ強烈な熱の700人分もが、一箇所に集められているのだ。熱は隣り合う別の熱と反応し合い、更に熱を放つ。体育館の温度は留まることなく上昇し続ける。どこへ行ってもエアコンが当たり前の生徒達にとってこれは、正気を保つ事さえ困難な状況である。それは、普段、部活動で太陽の下を走り回っているような生徒でも例外ではない。全開にされている窓からは、風の入ってくる様子はない。あちらこちらで、下着が丸見えなのもお構いないしに、短いスカートをバタつかせ、涼もうとしている生徒達が見える。女子高ならではの光景だ。壁際に並んで立つ教師達のうちの数人が、ネクタイを外し、シャツの一番上のボタンをあけた。ざわついていた生徒達は、暑さにうんざりしてか、少しずつ、口を閉じていった。やがて全体が一体感のある沈黙に包まれた時、ようやく、教頭がマイクの前に立った。「それでは、全校集会を始めます。礼。着席」のんびりとした口調が、生徒達のイライラを増長させた。皆、思い思いの愚痴を口にしながら、バラバラと床に座った。汗ばんだ足にベッタリと床の熱が伝わる。「それでは、校長先生より、新学期開始に当たってのお言葉をお願いします」この校長、恒温動物なのだろうか。それとも、年老いてしまうと、温度を感じる能力も衰えるのだろうか。容赦なく差し込んでいる白い日差しも、ぼやけた視界も、体育館全体を包んでいるイライラも、熱を放ち続ける床も、校長には関係のない事らしい。無駄に大きく張りのある、ハキハキとした喋りが、イライラを更に増長させる。校長の講話は、いつも長い。前もって考えていたであろう筋は、上がりきったテンションに跳ね飛ばされ、話はあちらこちらへ飛び、戻って来てはまた飛んでいく。なんとか話は佳境へと辿り着いたらしく、夏休み中に補導者が一人も出なかった事は自分の手柄であると、遠回しに自慢し始めた。美智子はそれを、口が半開きのまま聞いていた。聞いていたといっても、耳に入っていたわけではない。振り返った時に二人が居なかった事、独りで廊下を歩いてきた事、それらが何度も何度も頭の中でリピートされ、理由のわからない胸の痛みの正体を探ろうとしていた。
 次に気がついた時は、保健室のベッドの上だった。額には冷熱シートが貼られていた。カーテンを開け、室内を見渡す。保険の先生も、誰も居ないようだった。掛けられていたタオルケットを丁寧に畳み、教室へ戻る。既に皆は帰宅した後で、誰一人おらず、美智子の机の上にだけ、数枚のプリント用紙が置き去りにされていた。それをカバンにしまい、校門を出た。駅までの10分間の徒歩。今までは、おしゃべりに夢中で、あっという間だった。おしゃべりが止まらず、別れ道に立ち止まったまま何十分も立ち話する事もあった。しかし、独りで歩くこの道は、長いものだった。久しぶりの徒歩のせいか、真上から降り注ぐ太陽光のせいか、軽い上り坂で息が切れ、眩暈を感じて立ち止まる。忘れていた胸の痛みに、再び襲われる。そう、独り、なのだ。待っていてくれてもいいのに、そんな事を考える余裕さえなかった。
 
 それからどうやって帰宅したのか、どう過したのか、覚えていない。我に返ったのは、翌日の朝だった。起き上がろうとしたけれど、力が入らなかった。なんだか頭も痛い。鳴り続ける目覚まし時計になんとか手を伸ばし、止める。母はもう既にパートへ行っている時間だ。そうだ、今日はこのまま寝ていよう。急に、頭に浮かんだ。今までこんな事なかった。しかし、そう考えると、不思議と、胸が軽くなった。カーテンを通り越して刺してくる朝日のぬくもりと、クーラーからの風が、心地よいバランスを保っている。ぬくもりと涼しさを同時に感じながら、再び眠りに落ちた。
 
 不登校が親にバレるまでに、時間はかからなかった。学校を休みはじめて1週間。担任教師から母親への電話。母は何も言わなかった。翌日、パートを休んだ母の車に乗せられ、学校へ向った。母は、車から降りようとしない美智子の腕を掴むと、無理矢理引きずり下ろした。道路に座り込む美智子と、それを無言のまま見下ろす母。多数の生徒たちが、徒歩や自転車で、チラ見して過ぎ去っていく。母は、強い人だ。そして、子供へも、同じだけの強さを要求する人だ。母子家庭許であるが故の、本来ならば無用であるはずの苦しみ。それらに出くわす度、母は、ただ黙って、やり過ごした。涙のひとつも、愚痴のひとつもこぼした事はない。それは、美智子に対しても同じだった。子供にとっては理不尽でしかない状況に出くわし、苦しみ、泣き叫ぶ度、ただ黙ってやり過ごす事を強要された。それは、二人で生きていくための、唯一の方法だったのかもしれない。しかし、今の美智子にはまだ、母を理解する事は出来なかった。自分が陥った、理不尽としか言い様のない状況から逃げ出す事を許さぬ母の気持ちは、わからなかった。味方はいないのだ、と思った。今日だって、いくらこうやって時間が経とうとも、許してもらえる事はないだろう。やがて美智子は諦め、立ち上がると、校門をくぐり、教室へと向った。
 どう振舞えばいいのだろう。二人や、他のクラスメイト達は、私にどう接するだろう。何もなかったように、以前のように接してくれる? ううん、じゃあ、この前の二人の行動は? 休んでる間だって、メールの一つもくれなかった。それは気を使ってくれてたから? いくら考えてもわからない。それでも少しずつ、教室は近づいて来る。また、あの胸の痛みがやって来たのに気付く。他の生徒達はもう教室へ入ってしまったのだろう。周りには誰もいない。今ならまだ逃げ出せる、そうだ、帰ろう。でなければ、この痛みに押し潰されてしまう。しかし、そう思って振り返った先には、校門に立ち、こちらを見つめる母の姿があった。教室へ向う以外、選択肢はないのだ。わかってる。だけど、どうしていいかわからないよ。
 朝礼開始5分前を告げる鐘が鳴る。とうとう、下駄箱まで来てしまった。まだ覚悟はつかない。目を閉じる。頭の中がグルグルと回り始め、その回転に合わせて。真っ暗な空間の中をユラユラと上昇して行くような感覚に包まれた。拠り所のない、とても不安定な状態。このままでいると、心が壊れてしまいそうだと思った。慌てて目を開く。同時に、強い吐き気が込み上げてきた。
 それを誤魔化すように、ゆっくりと、ゆっくりと、2度、深呼吸をした。
 力の抜けた手をもう一度、爪がめり込み、血が滲むまで固く握り締める。喉を鳴らして唾を飲み込み、少しずつ、指を広げる。こわばったまま震える手で、下駄箱の扉を開く。
 そこには、あるはずの上履きはなかった。代わりに、経血にまみれた使用済みナプキンが詰め込まれていた。異臭とともに、夥しい数の虫が飛び出す。事態を理解出来ないでいる背中から、声をかけられた。「ミーチコッ」「何してんのよー? 早く教室行こ。先生来るよ? 」普段と変わらぬ二人を察知して、全身の力が抜け、振り向くと同時に泣き出し、へたり込んでしまった。結局、始業のチャイムが鳴るまで泣き続け、二人に引きずられるようにして教室へ入った。
 担任は、美智子の事には一切触れないまま朝礼を終え、教室を後にした。
 担任が教室を出ると同時に、一限目が始まるまでの5分間を各々が好きなように過そうと、立ち上がり始め、教室中が喧騒に包まれる。やっと泣き止んだ美智子も、二人の元へ
行こうと思い、立ち上がろうとした。が、その途中で、視界が真っ暗になった。頭の上から何かを被せられたようだ。咄嗟に振り払う。ゴミ箱だった。床に倒れたゴミ箱から、中身が飛び出す。美智子の頭の上や肩の上にも、飴の包み紙やティッシュが乗っかっていた。糸クズや綿埃が、ヒラヒラと眼前を舞い落ちていくのを、呆然と見つめた。
 「あんた、子供おろして寝てたらしいじゃん? 」「援交で出来ちゃったんだって? 」「よく学校来れたねぇ」「触らないでよ? 私まで妊娠しちゃう」
 クラス中が美智子を見て、ニヤニヤ笑っていた。助けを求めるように、二人を見る。二人も、他の者達と同じように、黙ったまま、こっちを見ていた。美智子が見た途端、二人は視線をあわせて見つめ合い、ぷっ、と噴出した。
 
 女子は常にグループを形成し、そのグループにはランクがある。そして、女子である以上、必ずどこかのグループに属さなければならない。もしもどこにも属さなければ、それは、正常な日常生活を送る事さえ困難な状況になる。食事、休み時間、トイレ、放課後、宿題、休日、あらゆる事が、グループ単位で行われるからだ。女子高である美智子の高校では、ことさら、それが顕著であった。そして、普通、何らかの理由でグループから弾かれた者は、ランクダウンして下位グループへ入る事になる。しかし、美智子はどのグループにも入る事が出来なかった。美智子自身がそういう人間関係にうとい、爛漫な性格であった事と、他の女子からしてみれば、自然体であるのに男子に人気のある美智子は、妬ましい存在でしかなかったからだ。堕胎や援助交際の噂が他校まで広まった事は、全ての生徒にとって、いい気味、だったのだ。そしてもはや、男子から好意をよせられる事もなくなった。
 
 独り、時が過ぎるのを俯いて待つだけの日々が続いた。イジメは、無視や罵声だけに留まらず、肉体的な傷を負わせらるまでになっていた。女子のイジメは、陰湿である。教師や親にすぐバレるような事は決してしない。傷つけるのは、常に目に見えない部分だけである。昼休みは皆が弁当を食べ、談笑する間、その隅で正座させられるのが習慣になった。そして、食後の一服を消す際、灰皿がわりに、美智子の太ももでタバコをもみ消すのである。美智子の両足は1ヶ月もしないうちに根性焼で埋め尽くされ、同じ箇所に繰り返されるうち、固い皮膚が盛り上がっていった。当然、家庭でも言葉を発する事がなくなっていた。あれ程爛漫だった美智子の激変に、母が気付かないわけがない。しかし母はやはり、何も言わなかった。
 
 人間とは、集団生活するものだ。そして誰もが、一人で生きて行く事は出来ない事を知っている。それは、人間の持つ、本能である。一人は寂しいからだとか、人と一緒の方が楽しいからとか、誰かを頼りたいだとか、そういう直接的な理由ではない。本能が、集団に所属する事を強く求めるのだ。当然、美智子も、その本能に突き動かされ、自分の存在を受け入れてくれる集団を探す事になる。
 同級生に要求される金額は、日増しに釣り上がっていた。お小遣いではとても足りない。母親の財布から盗む事は出来なかった。母のパート代では、余裕など全くない事を知っていたからだ。毎月、家賃の納入日前になると、遠い親戚の家を回り、頭を下げて金を借りてきているのも知っている。中学を卒業したら働くと言った美智子を抱きしめ、お金はなんとかするから、高校だけは、と言った母の、ささくれ立った手を知っている。
 金を作るため、スーパーのレジ打ちのバイトを始めた。夕方5時から8時までの3時間。レジ打ちというのは、孤独で忙しい作業である。夕飯の買い込みラッシュが閉店まで続く。人が次から次へと目の前に立っては入れ替わる。人間を相手にしているんだという感覚はなかった。人が物のようだ、まるで自動機のように同じ動きと言葉を繰り返しながら、無心の奥に、そんな言葉が浮かんだ。自分の方こそ機械みたいじゃないか、自分の中のもう一人の自分が、すかさず言い返す。この頃にはもう、心の中で自分と会話する時間が多くなっていた。
 バイトは、ほとんどが主婦だった。主婦達は8時と同時に慌しく店を飛び出し、帰宅していく。そんな状況であるから、たまに店長に怒鳴られる以外、バイト先でも会話する事はなかった。そんな中、一人だけ、まだ十代らしき若い子が居た。先に話かけて来たのは、向こうだった。
 「店長、厳しいでしょ? さっきも怒鳴られてたもんね」更衣室で制服のジャケットを脱いでいると、肩越しに顔をのぞかせて、ニコ、と微笑んだ。突然話しかけられた事、普段は無愛想な顔で仕事をしている彼女が楽しげな笑顔と口調であった事、そして、何かはわからないが、違和感。それらに戸惑いつつ、曖昧な返事をした。美智子の事などお構い無しに話は進められ、気付けば二人はドーナツ屋に居た。
 「私おごるから、いっぱい食べようよ」色とりどりのドーナツ群が、3段にわけられて並んでいる。それらを端から端まで慌しく何往復もするその瞳は、大きく見開かれ、ショーケースの照明を反射して、点滅を繰り返した。
 トレイからはみ出す程のドーナツとコーヒーを手に、二人はテーブルについた。
 「さ、食べよ」
 「う、うん。あの、」
 「あ、そっか、ごめん、私ね、洋子。中村洋子。16歳。あなたは? 」
 「美智子、中村美智子」
 「あは、同じ中村だ。学校行ってんの? 何年? 」
 「1年」
 「そっかぁ、じゃ、同じ歳だね。でも私、中学卒業して高校行ってないけどね。うちで働くって事は、部活はやってないんだよね? やらなかったんだ? 」
 「入ってたんだけど、辞めちゃって・・・・・・」
 「ダルいもんね、部活なんて。つっても私、部活なんか入った事ないけどね」
 話は終始、洋子が質問し、美智子がそれに答える形で進んでいった。ずっと、彼女のペースである。高いテンションで次々と浴びせられる質問に答えながら、さっきから引っかかったままの違和感は消えなかった。何故この子はこんなにも楽しそうにしゃべるのだろう、まるで何かにせき立てられているようだ、そんな疑問を持った。そして、いつ以来だろう。笑顔で話している自分に気付いた。一通りの質問が終わり、話題は店長や意地悪おばさんの愚痴となった。
 愚痴もひと段落した頃、あれ程あったドーナツはなくなっていた。ドーナツを食べ終えた洋子は、バッグから何やら取り出すと、それを一口分残してあったコーヒーで飲み込んだ。
 「これ? 私、病気なんだ。薬。これがないと、寝たきりなの。飲んだら飲んだで、テンション上がっちゃってさ、自分でもコントロール出来なくなるんだけどね。今日もごめんね、着き合わせちゃって」
 美智子はやっと、さっきから感じていた違和感の正体に気付いた。この子、こちらの目を見ないのだ。視線は常に、美智子の顔の斜め上の方にある。
 「変な奴だって思った? ま、実際、変なんだけどさ。昔っから友達もいないし。 孤立した女子って辛いじゃない? そんでさ、私、壊れちゃって」そういうと、左手の袖をまくって見せた。手首には何重にも巻かれた包帯、そして包帯の横から肘までびっしりと、幾本もの赤い並行線があった。
 「中2の時にさ、教室で『死んでやるー! 』って叫んでさ、彫刻刀で手首切ったの。そしたら、面白いぐらいに血が噴出しちゃって。みんな、走って逃げ出しやがったの。そのまま、精神病院に入院。脅しのつもりっていうか、まさかあんな大事になると思って無かったって言うか。もうおかしくなってたんだろうね。それっきり、退院してからも、薬がないと、何も出来なくなっちゃった。たまにハイになりすぎて、今でも切っちゃうけどね。ほら、この包帯。これも、2日前にやったばっかり」
 世の中に、リストカットなるものがある事は知っていた。しかしそれは、別世界の出来事で、特別に悲惨な環境の人だけの、特殊な世界だと思っていた。それが、今、目の前にいる。笑顔の少女の白く細い腕。青い血管が透き通って見える。そこに刻まれた赤い筋と、包帯。美智子は固まった。
 「真似しちゃ駄目だよー。跡残っちゃうからねー」袖を元に戻しながらそう言うと、急に真顔になった。
 「顔見ればわかるよ。美智子ちゃんもさ、辛いんでしょ」薄くなりつつあったバリアが、完全に消えてなくなった。何故だか、涙が溢れて止まらなかった。洋子はそれを、黙ったまま、見守ってくれた。ドーナツ屋で涙を流す少女。それを見守る少女。周囲の目は気にならなかった。美智子は、堰を切ったようにしゃべり出した。高校入学から今までの事、体中の傷の事。自分の中にもう一人の自分が居て、会話する事。幻聴が聞こえる事。眠りにつこうとすると胸が押しつぶされそうな苦しさに襲われる事。生理が止まった事、母は何も助けてくれない事。
 「うん、うん」洋子は、斜め上を見たまま、相槌を打ち続けて、ようやく美智子が泣き止むと、言った。
 「私達みたいなの、メンヘラって言うんだよ。脳の病気。私の場合は、境界性人格障害、いわゆるボーダってやつ。特別な事じゃない。心のバランスがちょっと崩れてるだけ。それは、薬で治るの。120人に一人はかかる、普通の病気なの。精神科、行こうよ」
 「精神科? なんかそれは、抵抗あるな」
 「私も最初はそうだった。精神科に通ってる自分は、おかしんだって思ってた。でもね、普通の事だよ。虫歯になったら歯医者に行くでしょ。同じ事だよ。そうだ、じゃあさ、今度のクリスマスパーティに来ない? オフ会ってやつなんだけどね。同じ病気の人達の集まりで、パーティするの。おいでよ」
 目の前に、自分を理解してくれる人がいる。受け入れてもらえる集団がいる。考えるまでもなく、飛びついた。
 
 わかり合える人がいる、それは、それだけで生きる糧となり、困難を耐え忍ぶ力となる。洋子とのおしゃべりだけを楽しみに、日々は過ぎていき、2学期の終業式の日を迎えた。
 終業式後の校舎の屋上。冬休みの分の『イジメ溜め』という事だろうか。この日のイジメは、普段よりも過激であった。全裸で手足を縛れて蹴り倒された美智子の太ももと腹にはプラスチック製の下敷きが置かれ、その上にライターのオイルをかけて、火を点けられた。溶けたプラスチックの温度は、タバコの火よりも遥かに高い。そして、短時間で消えてしまうタバコの火とは違い、長時間に渡って燃え続ける。狂った獣のような悲鳴を上げながら転げ回るが、張り付いたままのプラスチックは燃え続ける。悲鳴を隠すため、口にタオルが詰め込まれた。呼吸さえ出来なくなった美智子は、気を失った。
 
 全裸のまま肛門にホウキの柄を入れられて放置された美智子に意識が戻ったのは、既に陽が落ちてからだった。寒空の下、5時間以上も放置されていた事になる。命を落としていてもおかしくない状況である。
 肛門からゆっくりと、ホウキを抜く。激しく出し入れされたのだろう。肛門付近にはヌルリとした冷たい血が広がっていた。少し動かす度に激痛が走る。最後は血が潤滑油となり、ズルリと抜け出した。
 肛門の痛みで立つ事が出来なかった。呼吸する度に、肛門から心臓へ向けて、切り裂くような痛みが走る。暗い校舎の中を、手探りで這いながら教室まで戻る。膝や肘にまで火傷が及んでいた美智子にとって、教室までの道のりは果てしなく遠いものだった。一歩進むごとに傷口は広がり、更なる痛みを放つ。力む度に太ももや腹、肛門が痛む。ナメクジのように、ズルズルと体液の線を残しながら進む。再び途切れそうになる意識。それを、今夜はクリスマスパーティである事だけが、なんとか繋ぎとめる。教室へ戻り、服を着て、パーティへ行かなければ。
 
 ようやく階段を下り終ると、自分の教室だけ灯りが点いているのが見えた。「美智子ちゃん! 」その声を聞くと同時に、美智子は再び崩れ落ち、気を失った。
 
 目を開けると、まっすぐとこちらの瞳を見つめる、洋子の顔があった。
 洋子は安心したのか、いつものように視線を斜め上に戻し、一つずつ、ゆっくりと説明してくれた。連絡が取れないから学校の中まで探しに行った事、倒れた美智子をこの病院へ運んだ事。生死に関わる程の傷ではない事。母親には連絡していない事。
 母親に連絡が行ってない事を聞いて、ほっとした。繋がれた点滴と洋子の顔を交互に見る。不思議と、体の痛みは感じなかった。点滴が終るまで、沈黙が続いた。点滴が終るのに合わせて、先に口を開いたのは、美智子だった。
 「パーティ、連れて行って、くれる、よね」
 「寝てなきゃ」
 「行き、たい」
 「私もここにいるから、ずっといるから」
 「楽しみ、にしてた、の」
 洋子は返事をしないまま、ナースへ点滴が終った事を告げに行った。しばらくしてやってきたナースは、溜息をつきながら荒々しく点滴を外すと、手を貸す素振りも見せず、小さい声で「受付の方へ」そう言いながら去って行った。
 
 繁華街の中にある、大きなカラオケボックスの前でタクシーを降りた。洋子に肩をかしてもらい、なんとか歩道に立つと、店内へ向ってヒョコヒョコと歩き出す。
 洋子が携帯で誰かと話してる。どうやら部屋の場所を確認しているようだ。やがて洋子に導かれ、一番奥の部屋へ辿り着いた。ドアの向こうからは、低い声で素っ頓狂なシャウトをしている男の声が漏れ聞こえる。
 洋子がドアを開ける。みんなが二人を見る。一瞬遅れて、歌っていた彼も片手を高々と上げたまま固まって、頭だけこちらを見る。沈黙。そして、「やぁっ! 」「遅っ! 」の歓迎の声。全部で30人はいるだろうか。「はいもうちょっとそこ詰めて〜」のリレーの後、出来上がった狭いスペースに二人は座った。
 また、何事もなかったかのように歌が再開された。部屋を一通り、見渡してみる。年代も性別も、バラバラだ。中学生っぽい、ショートカットの女の子もいれば、スーツ姿で脂ぎったおじさんもいる。彼らは次々に立ち上がっては歌い、それに合わせて手拍子したり、ハモったり。思い思いに過している。弛緩しきった表情でタバコの煙で輪っかを作っているものもいる。心の病を抱えた者達の集いとは思えない、アットホームでアッパーな空気に満ちていた。洋子によれば、いつもはもっと少人数だが、今日は特別な日と言う事で、初参加の者も多いらしい。何のしがらみもない者達が、心の病という共通項の元に集い、ともに過す。今、この集団の中に居る事が、ただそれだけの事が、とてつもなく嬉しく思えた。
 洋子が歌い終わると、「じゃ、次、そこの彼女いこうよ! 」「ていうかぁ、遅れてきた二人はぁ、自己紹介してくださーい」視線が、二人に集中した。洋子が咄嗟に切り返す。「私が洋子で、この子が美智子。同じ、中村なの。歳も一緒! で、ごめんね、今日はこの子、ちょっと調子悪くて、歌えないの。だから、歌はパスね。はい、自己紹介終わり」皆、とりあえず、という感じで、パラパラと拍手が起こった。
 幹事らしき男が立ち上がり、マイクを要求した。「はい、じゃ、皆揃ったんで、これから、飲み放題コース開始でーす! 生中の人ー? はい、生22、と。ウーロン茶?駄目、それなし! 今日は皆で飲んじゃうんだから。じゃ、他は? チューハイとかの人ー? 」
 美智子は考えた。今まで、酒なんか飲んだ事はないし、飲む事もないだろうと思っていた。酒とはつまり、泥酔して家族に暴力を振るうものであり、人を不幸にしてしまうものだ。それに、もし今飲んでしまえば、傷口にもよくないだろう。
 しかし、飲まなければならないと思った。この場に居るためには、飲まなければ。
 
 やがて運ばれてきたカルチューに、口をつけてみる。洋子が心配して尋ねる。
 「大丈夫? 飲むとヤバイんじゃない? 気使う事、ないよ? 」
 「ううん、飲みたいの。私、飲みたいの」そういうと、一度、グッと唾を飲み込み、グラスの中身を一気に飲み干した。その飲みっぷりに、拍手が起きる。肛門が裂けたような衝撃が走り、脈動にあわせて激痛が走る。やがて、腹や太ももも同期して痛みを発し出した。大量の汗が噴出しているのがわかる。洋子が抱きしめ、ハンカチで額の汗を拭う。そうやって、痛みの波に襲われていた時間は、どれぐらいだっただろう。とてつもなく長く、終わりのないものに思えた。しかし実際には、2,3分の出来事だったかも知れない。やがて痛みは綺麗に消え失せ、体が宙に浮いているのを感じた。初めて味わう多幸感。次々と運ばれてくるグラスを飲み干しながら、幸せな時間とは、こうやって、ゆっくりと、ぼんやりと進んでいくのだな、と思った。そして、過ぎてみれば、それはあっと言う間の出来事なのだ、とも。
 始まったばかりだと思っていたカラオケ大会に、終了時間が来た事が告げられる。
 
 店の前に30人が集まり、夜風の冷たさに身を縮める。「早く決めてよー、寒いよー」寒さを訴える声が飛び交う。どうもこの幹事、あまり場慣れしていないらしい。結局、帰宅組、カラオケ延長組、飲み組の3つに別れて、自然解散となった。美智子は、帰ろうという洋子を振り切り、飲み組について行った。この多幸感が薄れてしまうのが、惜しかったのだ。
 「私、歩くの無理ー」思わず口にすると、すかさず、一人の男が目の前でしゃがみ込み、「どうぞ」といって、おんぶしてあげるの仕草。何も考えずにその背中に飛び乗ると、男は軽く、ウゲ、と声を出し、ヨロヨロと立ち上がった。男の方も、かなり酔っ払っているのだ。
 おんぶは、歩くたびに傷が擦れて痛かった。
 「私、お姫様だっこがいいなー」
 酔いのせいか、久しぶりの、集団生活への安堵か。今なら、何を言っても、受け入れてもらえるような気がした。
 男は、笑顔で大げさに両手を広げると、軽々と美智子を持ち上げた。そしてお姫様抱っこのまま、2次会の店まで運ばれた。
 飲み組は、美智子を入れて5人しかいなかった。女の子が一人に、20代らしき男が3人。同じ夜の街とはいえ、さっきまでの安っぽいカラオケ屋とは、だいぶ違っていた。青、ピンク、緑、と次々に変わる淡い光と共に、スモークを吐き出す照明。カウンターの向こうには様々な形をしたボトルが無数に並び、壁には、エジプトを連想させる巨大な絵画や装飾品が飾られていた。穏やかで雄大で、どこか謎めいた空間。大人の隠れ家、この店のコンセプトは、そうに違いない。美智子は、初めて侵入したこの大人の空間に気後れするどころか、瞬時に心を奪われた。
 途中、洋子から携帯が鳴ったが、気付かないふりをした。なんとなく、邪魔された気分になって、鬱陶しく思えた。話題は、暗い照明に合わせるように、飲んでいる薬や通院歴、過去にやらかした失敗談に移っていた。病識もなく、まだ自分がメンヘラであるんだという自覚の甘かった美智子は、オーバードーズ自傷という言葉が飛び交うのを、ユラユラ揺れ続ける視界の中で聞きながら、自分もやってみるべきだな、きっと気持ちいいに違いない、そんな風に思った。
 
 話題もひと段落すると、携帯のアドレス交換をして、店を出た。帰る方向が違う二組に別れた。美智子は、また男にお姫様抱っこされて、二人きりになった。
 駅前まで来た男はそのまま駅を通り過ぎ、ホテル街へ向った。「酔い冷まして帰らないと、まずでしょ? 少し、休憩しよう」何も言わない美智子に、男はそう弁明した。
 初めてのホテル。狭くて、すえた臭いのするエレベータ。「ああ、私、これから、やられるんだ」それ以上の考えは、何も浮かばなかった。男は美智子を抱き抱えたまま、器用に財布を取り出して代金を払うと、カギを受け取った。
 
 室内は、美智子の見知ったホテルとは、かけ離れたものだった。つまり、美智子にとってのホテルとは、テレビ等で見る、煌びやかな装飾と幻想的な照明に彩られ、遠くに街の喧騒を見下ろす窓、そんな、『ロマンチックな』空間。しかし、目の前にあるのは、真っ白い壁に質素なベッド。「退室の際はフロント9番へ電話して下さい」の手書きの張り紙。前客のものと思われる、中身が残ったままのゴミ箱。崩れたエロ本の山。急速に酔いが冷め、さっきまでの幸福感が薄れていくのがわかり、溜息をついた。
 男はそんな気持ちを悟る様子もなく、鼻歌を歌いながら美智子をベッドへ下ろすと、隣に座った。リモコンを手に取りスイッチを入れると、エロビデオが流れ出した。激しくバックで突かれながら、右手で眼前にあるもう一つの肉棒を掴み、口に含む女。過去、文章や写真では見たことがあった。ハウツー記事を読み漁っていた時期もあった。だから、セックスについて、知ったような気になっていた。しかし、いざこうして目の前で行為が繰り広げられると、吐き気がして、咄嗟に視線を逸らした。
 男は、俯いたままの美智子に声をかける事なく、ビデオに見入っていた。やがて、喘ぎ声は嗚咽のような絶叫に変わり、「いくぞ、いくぞ、口開けて! 」という男優の声によって、終わりを迎えた。エンドロールが流れ始め、沈黙が訪れる。美智子は今になってついに、今日ここまで来てしまった事を後悔した。チラリと男へ目をやる。整髪料がベットリと塗りつけられてテカテカと光る髪、色あせて毛玉の目立つチェックのシャツ。くたびれたジーンズ、その先から覗く、白黒ボーダーの靴下。神経質そうな銀縁のメガネ。その奥にある、細く、濁った目。
 「なんで、こんなのと。嫌だ」思うと同時に、立ち上がった。「おい! 」肩を掴まれ、振り向かされる。振り払う。
 「おい! 」
 「嫌だ」
 「嫌だじゃねえだろ」
 「嫌だ、離して! 」
 「うるせーよ」右手と首を掴まれて、ベッドに押し倒される。
 「嫌だってばあ! 」
 左手の手首と肘で美智子の首と右手を押さえて動きを封じたまま、右手でブラウスのボタンを引きちぎる。
 一瞬、男の動きが止まった。包帯だらけの体、そしてその包帯が巻かれていない部分にまで及んでいる、無数の火傷の痕に、怯んだのだ。しかし、一度その気になった男の感情は、その程度の事で止まる事はない。男の性欲とは、全てを超越するのだ。
 ブラジャーから胸を出し、力任せに揉みしだく。スカートを捲り、下着を引きちぎる。男は右手を一度口に入れて唾をつけると、それを股間に押し当ててゴシゴシと上下させた。
 「いーたーいぃっ!! やめて!」
 「うるせーよ、力抜けよ、気持ちよくしてやっからよぉ」
 「やだ! やだ! 許して! やだ! 」
 美智子の頭に、閃光が走った。男が、力まかせに殴りつけたのだ。一瞬遅れて、痛みが来て、殴られた事を理解する。もう、逃げられないのだ。
 「大人しくしろよ」男は、高ぶる感情を抑えるように、低い声で、肩を大きく上下させながら言った。
 男は、こわばったまま無反応のままの美智子の股間を舐め続けた。やがて舐めるのにも飽きたのか、美智子の髪をつかみ、自分の股間へ押し当てた。美智子は、指示されるまま、ペニスからアヌス、足の指までもを丁寧に舐めた。
 「よし、入れてやる」再び、男が美智子に覆いかぶさる。
 「力抜けよ。入れられねえだろ」そう言われても、恐怖でガチガチになった体は言う事を聞かない。男は固く閉じられた膝と膝の間に無理矢理体をねじ込み、一気に根元まで挿入した。破裂したような痛み。
 「痛い! 痛い! やめて! 痛い! 」美智子の絶叫は、男の耳には入らない。無言のまま、荒々しい一定のリズムで腰を振り続ける男。身をよじり、逃げ出そうとする。肩を掴まれる。血で、手が滑る。引き戻され、再び奥まで入れられる肉棒。噴出す血がグチャグチャと音を立てる。終らない激痛。痺れていく頭。頭の奥に、幼い頃に見た、泥酔した父が嫌がる母の上に覆い被さっていたシーンが浮かんだ。
 
 男は、硬直したまま反応の無くなった美智子に向って、うっ、と小さい声を出すと同時に、射精した。
 肉棒を抜き、左右の陰唇を広げ、指で血混じりの精子を掻き出す。男はそれをシーツになすりつけると、シャワーを浴びに行った。
 
 シャワーを浴び終わった男は無言のまま、放心状態の美智子には目もくれずに、逃げるようにして出て行った。ビデオには、次から次へと、女優が現れては喘ぎ、消えていく。茫然自失の中、それを鬱陶しく思いながら、かといってリモコンに手を伸ばす気にもなれないまま、定まらない心の置き所をなんとか見つけようとした。
 そうしてどれぐらいの時間が経っただろう。カーテンの隙間から、明りが漏れているのに気付いた。立ち上がり、服をつくろい、壁にもたれながら、駅へ向った。
 電車は、すっかり朝の顔をした連中でいっぱいであった。破れた胸元を手で隠す美智子に、視線が集まる。乱れた髪、涙の後の残った頬、口元に出来たアザ。どう見ても、尋常ではなかったのだ。しかし、誰一人、声をかけるものはいない。窓には、赤一色の外の景色とともに、自分の顔が映っていた。昨日の昼から今までの事がボンヤリと頭の中を通過していく。全ては、夢なんだ、そんな気がした。これから家に着いて、寝て目覚めれば、笑顔の自分がいる、そんな気がした。
 
 股間の痛みで目が覚めた。身を起こそうとすると、全身に痛みが走った。体中のあちこちが、染み出した体液でシーツに張り付いている。それを少しずつ剥がす。乾いた体液と皮膚はシーツ側に残り、血の滲んだ肉が露出する。股間から膝にかけて、血の海が出来ていた。
 夢では、なかったのだ。言いようのない、漠然とした、しかし角ばった何か。それが伸縮を繰り返しては胸を突き刺し、全身に痛みが広がる。胸に手を当て、その痛みを確かめ続けた。
 
 全ての少女達は、幻想の中に自分の将来を見る。いつか訪れているであろう、また来ぬ、その瞬間。それを探し、待ち望み、日々を過す。やがて、自分は幻想の中には居られない事を知らさせる事となる。それは、とてつもない、痛みや苦しみをともなう。いかなる少女も、その成長過程において、この痛みをすり抜ける事は出来ない。在るがままに受け止め、覚悟して目の前を直視するしか、術はないのだ。
 とは言え、学校に行かなくてよい冬休みは、美智子にとって、安息の日々であった。夕方まで寝て、バイトへ行き、洋子と他愛もない話をして、帰宅する。洋子には、先日の事は言わなかったし、向こうも聞いてくる事はなかった。二人は、何事もなかったかのように、ただただ、ドーナツを食べながら、馬鹿話をした。
 
 安息の日々は、永遠には続かない。美智子にとっても、それは同じである。如何なる理由があろうとも、時は平等に過ぎ、明日を迎える事を強要する。2週間が過ぎ、やっと、股間の出血が止まった。そして、ついに明日は、3学期の初登校日である。ハンガーにかけられた制服とブラウスが目にとまる。アイロンがかけられ、千切れていたボタンも、元通りになっているのに気付いた。母がやってくれたのだろう。それは、母からのメッセージ。何があろうとも、逃げるな、学校へ行け、そういう意味だ。その意味に考えが至った時、再び、胸の痛みを感じた。脈動はその度に大きくなり、それにともって、痛みも大きくなっていく。全身がビクンビクンと波打つ。学校へは、行きたくない。殺されてしまうかもしれない。しかし、それを許さない、母。学校へ行ったからと言って、何になるというのだ。何故、母は私にそれを強要するのか。私は、私だ。私は、私らしくありたい。辛い思いはしたくない。平穏な生活が送りたい。それが、今の私の、偽らざる、気持ちだ。私は、誰のためのものだ。私は、何故生きているんだ。
 頭に、洋子のリストカット痕が浮かぶ。自傷について語っていた彼らの会話が浮かぶ。
 
 明りを消したままの部屋に、冬の寒空の、頼りない光が差し込む。カミソリはその光を独り占めにして、明るく輝いている。
 左の手首に、刃を当てる。そのままゆっくりと、引いた。少し遅れて、血が滲み、一本の線が出来た。微かな痛み。もう一度刃を当て、強く押し当て、引く。脳の奥に痛みが走る。際限なく血が溢れ出す。脳の痛みに反比例して、胸が安らかになって行った。
 もっと切れば、もっと楽になれると思った。夢中で、刻み続けた。
 
 目が覚めたのは、総合病院内にある、救急センターのベッドの上だった。
 母が発見して救急車を呼んだらしいが、既に母の姿はなかった。
 外科医に傷の説明をされた後、精神神経科へと連れて行かれた。
 精神神経科のフロアは、患者でいっぱいだった。看護士は車椅子に点滴付きの美智子に向って、その隅で呼ばれる待つようにと言うと、慌しく、自分の持ち場へ帰っていった。
 包帯で包まれた左手が痛い。しかし、達成感というべき、満足な気持ちもあった。切った時の痛みと、湧き上がってきた恍惚感。何度も繰り返し、昨夜の事を思い出していた。
 やがて名前が呼ばれ、個室へ入れられた。そこに居たのは、ドクターではなく、学生らしき、若い男性であった。選択式のアンケートを書かされ、それを見ながら、幼い頃から今までの事を、根掘り葉掘り聞かれた。話は微に入り際に入り、全てを曝け出す事を要求された。生い立ち、イジメ、レイプ、幻覚、幻聴、全てを話した。彼は時折、何かを書き込みながら、関心なさそうに、冷淡な相槌を打つだけだった。長いカウンセリングが終ると、再び待合室で待たされた。
 次に呼ばれたのは、更に、2時間後だった。あまりにも患者が多く、診察がおいついていないのだ。
 さっきの学生らしき人物とは風格の違う、白髪で度のきついメガネをかけた、気難しそうなドクターだった。
 ドクターはこちらをチラリと見ると、カルテに目を通し、「統合失調症です。重度のね。5段階でいうと、4段階目ぐらいです。といっても、あなたみたいな年頃の子は、思春期でもあるしね。だから、病気との切り分けは難しい。原因を潰すって事が出来ないの。まぁ、入院は必要ないでしょう。でも、薬出すから。薬飲んでれば、日常生活は遅れるから。それで様子みてみて」それだけ言うと、退室を促した。
 薬をもらい、帰宅した。8種類もの薬が入っていた。
 
 洋子とのおしゃべりと、週に一回のリストカットだけを頼りに、毎日を耐え忍んだ。薬の成果か、幻覚や幻聴に悩まされる事はなくなったが、常時、異常な程に喉が渇き、常に水分を欲した。また、自然排便が出来なくなり、排便のための薬が追加された。排便という当たり前の事さえ出来ない体になってしまったという事実が、もう自分は普通ではないんだ、一生このまま苦しみ続けるんだ、そう言っているようで、更に美智子を苦しめた。
 
 洋子とともに、様々なオフ会に顔を出すようになった。普通の飲み会の時もあれば、カラオケボックスで、ある者は陽気に歌い、ある者はそれを聞きながら手首を切る、という異様な時もあった。
 そういう生活の中で、周囲と同化するように、オーバードーズや、違法ドラッグの味も覚えた。薬で朦朧としたまま、男どもに好き勝手される事も珍しくなかったし、それを何とも思わなくなった。むしろ、多くの男に抱かれれば抱かれる程、自分の価値が増しているような気がした。性的なトラウマを持つものは、それを克服しようと、無意識下で、過剰にセックスを求めたり、アブノーマルなセックスをするようになる。美智子の場合も、悲惨な処女喪失体験からくるトラウマの、克服行動であったのかもしれない。
 
 そして、2年近くの時が過ぎた。相変わらず、洋子との仲は良好で、沢山のオフ会仲間も出来た。日記や詩、リストカット画像を掲載した携帯ブログも始めた。容姿端麗な美智子の存在の噂はすぐに広がり、多くの者が知る所となった。リストカットして画像をUPする度に、多数の感想が届いた。同調や同情、心配の書き込みばかりだった。中には、カッターで自分の腕に、美智子宛てのメッセージを刻んでみせる者までいた。感想が多く付けば付く程、満足な気分になれた。その満足が、次のリストカットを促した。次第に切る量は増して行き、より深く、より長く、切りつけるようになっていった。薬をやりながらのリストカットは、他の何でも得られない、最高のエクスタシーをもたらした。完全に、逃れられない悪循環に飲み込まれていた。もはや、このまま過激化していき、美智子の死をもってしか、事態は収拾しないかと思われた。
 
 しかし、ここに、私達には信じてよい、一つの確かな事実がある。それは、この世は互いが互いを慈しみ合うシステムによって出来上がっている、という事である。
 これは、美智子のように、生と死の境目を漂い続ける者にとっても、例外ではない。
 全ての事象は、死をもって隔てられた向こう側ではなく、生きる者達の世界である、こちら側で完結するのである。
 
 高校生最後の残りわずかな学校生活が始まった。後1月半で、この地獄から開放されるのである。しかし、卒業後の自分に、希望があったわけではない。薬と自傷と乱交。それらによってなんとか成立している自分という存在。イジメからの開放によって、それが変わるわけではない。
 いつまでもこのままでは居られない。何かを、見つけなければならない。言葉には出来ない、『何か』を。わかっているつもりではいた。他人からの同情と好奇の目という、曖昧で頼りない、いつか消えてしまうもの。このままそれだけを糧にしていくわけにはいかないのだ。しかし、その『何か』に対峙する勇気は、今の美智子にはなかった。
 
 2月になり、新しい男の子が、新人バイトとしてやってきた。彼とは、洋子を通してすぐに仲良くなった。彼は大学に合格し、昔からやっていた新聞配達の奨学金が決まっていたが、それだけでは足りないので、更にバイトを増やしたのだという。バイト中も学校の制服を着たままで坊主頭の彼。その接客態度は、過剰なまでに卑屈だった。しかし、ハキハキとしたよく通る声と笑顔はすぐに常連のおばさん達のお気に入りとなり、また、バイトの主婦連中にも評判が良かった。
 今まで2二人だったドーナツ屋での談笑は一人増え、3人となった。美智子と洋子は彼に、自分達と同じ臭いを感じていた。
 3人での時間は、これまで以上に楽しかった。話題の幅は広がり、工業高校ならではの裏話には二人とも腹を抱えて笑ったし、22時には寝て4時に起きて新聞を配り続けているという話には、心底、感心する他なかった。雨の日にコケて新聞200部を丸々駄目にしてしまった時は、給料一月分が吹き飛んだという。そんな話さえ彼は、大げさな身振り手振りと、澄み切った笑顔で語った。
 影でひっそりと蠢き、息を殺して生き長らえている自分。影に包まれてもひるむ事無く、堂々と歩いてみせる彼。美智子はそんな彼の血のたぎりに、憧れと不快の両方を、同時に感じた。思春期と言う、人生の中で一際ウェイトの高い期間。その全てを、影の中で惨めさを売りにして来た自分が恥ずかしかったし、彼のように生きられなかった自分が、悔しかったのだ。
 
 その日、洋子は風邪でバイトを休んだ。美智子は「風邪、もう大丈夫? 熱、出てない? 」というメールを送り、二人でいつも通り、ドーナツ屋へ向った。
 ドーナツ屋の目の前まで来た時、彼は、「偶然見つけたんだけど」そう前置きしてから、「見せたいものがあるんだ」と言った。
 バスに乗り、210円を払って見知らぬ街で降りる。外灯もなく、車もほとんど通らない。普通の女性であれば、警戒するだろう。当然、美智子も、警戒しなかったわけではない。しかし、仮にこれから彼に乱暴されたとしても、それが大した事だとは思いもしなかった。「ごめんね、少し歩くけど」そう言う彼に導かれ、歩き出す。2月の夜の風は冷たく、切るように頬を撫でていく。マフラーを鼻まであげる。目の前に、暗闇で先の見えない、石の階段が現れた。「暗いから。気をつけて」彼が差し出した手を握り返す。さっきまでポケットに入れられていた彼の手は、美智子の手よりも、温かかった。
 階段は、息が切れる程長かった。やっと登り切ると、神社があった。
 「ん? 」
 「ううん、この裏なんだ」
 木の根に足を取られそうになり、彼が慌てて腕を握る。傷口が開いたのか、痛みが走った。
 
 そこには、街の灯りがあった。
 美智子達の住む街の全てが一望出来た。部屋の明かりや、街灯や、車のライトが薄ぼんやりと明るい地平線まで続き、そしてその地平線の上には、寒さに震え、今にも零れ落ちて来そうに頼りなく光る、星々があった。
 
 「さっきは、偶然見つけたって言ったけど」腰まである高さの塀に飛び乗って腰掛けながら、彼が言った。
 「本当はここ、昔っからの、お気に入り。だから、美智子ちゃんにも見て欲しくて」
 彼に合わせて、隣に寄り添って腰掛ける。
 穏やかにその生命を伝える街の灯り達。寄り添いあい、体温を感じあう二人。口説いているとも取れる台詞。多くの少女は、この状況に陥れば、うっとりしてしまうかもしれない。しかし、美智子には、そんな感情はなかった。寒空の下、自己満足に付き合わされた、ただ、それだけの事でしかない。
 彼は美智子のお気に召さなかった事に気付いてか気付かずにか、一人、続けた。
 「俺んちさ、普通じゃないんだな、って。物心ついた時にはもう、わかってた。お小遣いもなかったし、どこへも連れて行って貰えなかった。母ちゃんは一年中、パート2つ掛け持ちしててさ。それでも、金がない金がない、って言っててさ。そして決まって、ゴホゴホ咳き込むんだ。小学5年生の時から、新聞配達やらされた。なんで俺だけ、って思ってたよ。憎くて憎くてさ。でも何が憎いかわからなくって。どうして俺なんか生まれたんだよ、って。どうして俺なんか産んだんだよ、って。直接母親にそう言った事もあったよ。そんなんだったから、俺、中学卒業したらそのまま新聞配達やるつもりだった。配達所の人も、OKしてくれてたし。でもね、進路指導ってあるでしょ。三者面談って言うのかな。親子と先生で、どこの高校に行くか決めるやつ。内緒にしてたのに母親のやつ、どこで聞いたのか、駆けつけて来やがって。『公立で、入れる所ありませんか、お願いします、高校入れてやって下さい。お金はなんとかします』って。金ないくせにさ。俺に高校行けなんて、今まで以上に苦しめって事でしょ。なんか、許せなくってさ。うるせーよ、何言ってんだよ、って。怒鳴った。担任が間に入って止められてさ。部屋を出て、母親と並んで歩き出した。そしたらカーチャン、歩くの遅いんだよね。ヨタヨタヨタヨタ歩いてさ。俺、またイラっとしちゃって。『早く乗れよ』て言って、自転車の後に乗せた。走り出したら、カーチャンは俺の腰にしがみついてさ。その手が、カッサカサでアカギレだらけで。でも、力強いの。痛いぐらい強く、俺を抱きしめてた。そしたらなんか、怒りが消えて、胸がスーッとしたのがわかったよ。『そうだ、がんばろう、この人と一緒に、生きていこう』自然と、そう思えたんだ」
 美智子は彼の一人語りを、相槌もせずに、ぼんやりと聞いていた。意識はどちらかというと、彼の話よりも、動き続ける車のヘッドライトの列に向けられていた。
 「それからかな、俺、変わったと思う。強くなれたっていうか。それにさ、母の偉大さ、みたいなさ。今は思うんだ、産んでくれてありがとう、あなたの子に生まれてよかったって」
 「でも」
 「でも? 」
 「結局、君は、今も昔も貧乏で、人並みの生活なんか出来てないし、これからもずっと、今のままでしょう? 」
 青臭い事を誇らしげに語る彼が、鬱陶しく思えた。だから、意地悪したくてそんな言葉が口をついた。
 「そうだよ。うん、その通り。だけど、幸せなんて、人それぞれ。同じ体験が、受け取るやつの気持ち一つで、幸せにもなれば、不幸にもなる。皆とは違う人生送ってきたからこそ、言える事だってある。好きな子が誰かに抱かれる時の気持ちとか、部屋に閉じこもって手首掻っ切る時の気持ちとか。簡単にわかる、だなんていえないけどさ。例えその子の寂しさに手を差し伸べてあげる事が、俺には出来なくっても。それでも、隣に居てあげる事ぐらいは出来る。一緒に笑って、一緒に泣いてあげる事ぐらい、出来る」
 いつしか空が白み始め、地平線がぼんやりした円弧を描きだしていた。やがて、太陽がほんの少し、その輪郭を現した。
 「知ってるでしょ? 地球は丸いから、太陽が昇ったり、落ちたりする。」
 「知ってるよ、それぐらい」
 「じゃあさ、知ってる? なんで、地球が丸いか。俺、気付いたんだ。誰も隅っこで泣かないように、誰もが好きなように歩けるように、地球は丸いんだよ」
 美智子はそれに対して返事をしなかった。彼もまた、それっきり口を閉じた。
 空は完全に白くなり、太陽もその全容を現した。遠くで鳥の鳴く声がする。
 彼は街の方を見つめたまま、何も言わない。
 精一杯に生きるが故に、叫ばざるを得ない想い。精一杯に生きるが故に、聞こえてくる悲鳴。
 言語ではなく、言葉ではなく。心で。心でこの空間を共有し、わかり合うんだ。今がその瞬間なんだ。
 美智子は、頬が火照っているのに気付いた。この火照った頬を悟られまいと、マフラーで隠した。
 
 バスで来た道を、ゆっくりと歩いて帰った。こんなのいつ以来だろう。今、この時間が終ってしまうのが、名残惜しく思えた。永遠に続いて欲しいと思った。だから、わざとゆっくり歩いた。
 
 駅に着くと彼は、「明日からはまた3人で楽しくしようね。じゃ」そう言って軽く手を上げ、電車に乗って行った。
 電車の中から見える見慣れたはずの町並みが、なんだかいつもと違って見えた。
 
 電車を降り、改札を通って外へ出る。朝日は随分上まで昇っていた。澄み切った空。今朝の光はどこまでも、無限に届く気がした。
 
 太陽を背にして、しゃがみ込む。
 短距離走の選手のように構えると、胸の中で鳴った激鉄に合わせて、駆け出した。